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6月1日 欧米人が解釈する時代劇 BLUE EYE SAMURAI/ブルーアイ・サムライ

 視聴からだいぶ間が開いちゃったので、簡単な感想文。

 Netflixで配信されるオリジナルアニメ『ブルーアイ・サムライ』。マイケル・グリーンとアンバー・ノイズミ夫婦が原案・脚本を書き、ジェーン・ウーが監督、フランスのアニメーションスタジオBlue Spiritが制作を担当した。
 ユニークなのがキャスト。主演マヤ・アースキンは日本人とアメリカ人のハーフ。リンゴを演じたマシ・オカはハリウッドで俳優兼プロデューサーとして活躍する日本人。アケミ姫の側近を演じる関を演じるのはジョージ・タケイ。ジョージ・タケイはロサンゼルス生まれの日系アメリカ人2世。アケミ姫を演じるブレンダ・ソングは日本人ではないが、母親がタイ出身。
 ……と、出演者が日系人か、あるいはアジア系で固められている。おそらくこの配役は、最近アメリカで蔓延している“正しさ”に準じたキャスティングではないかと……。例えば黒人のキャラクターに白人が声優をするのはいかがなものか、そこも正しくあるべきではないか――というのがいまアメリカで言われていること。黒人のキャラクターに白人が吹き替えていたらそれだけで炎上するし、配役が決定してても辞退することもある。そういう流れがあるから、キャストが日系人とアジア系で固められたのだろう。
 本作の評価は非常に高く、映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家による肯定評価が96%、オーディエンススコアが96%。アメリカン・シネマ・エディターズ・アワードでは最優秀編集アニメシリーズ賞受賞、2024年アニー賞ではAnnie Award for Outstanding Achievement for Animated Effects in an Animated Television受賞(優れたテレビアニメに贈られる賞)の他、キャラクター賞、編集賞などを受賞した。
 高評価を受けて、第2シーズンの制作が発表。完結へ向けて3~4シーズン制作する予定で、スピンオフの計画も立てられている。

 ここまでが『ブルーアイ・サムライ』に関する周辺的な情報。
 その内容だけど……物語の前提にちょっと「解せない部分」がある。

 17世紀。鎖国時代の日本。この時代では女性は差別を受けていて、1人で関所を通ることはできなかった……

 売られていく女たち。徹底的に立場の弱い女……

 さらに欧米人は迫害の対象だった……

 いや、待て。待て待て待て。それは嘘だ。ぜんぶ嘘!
 当時の日本で、女性が1人で関所をくぐることができなかった……なんてことはない。それどころか、この頃の女性の立場は強く、はっきり自己主張する強さを持っていた(結婚していても、女性側から三行半を突きつける……ということはよくあった。日本的と言われがちな「奥ゆかしい女性」のイメージはその後に作られたもの)。立場が弱かったのはそういう主張ができない人で、それは男も女も一緒。
 欧米人に対する迫害だが、確かに当時鎖国していたけど、これは貿易の“制限”であって、欧米人は普通に日本に入ってきていたし、その欧米人がよってたかって暴力を受けていた……という事実もない。鎖国には、欧米諸国中心で起きている「宗教戦争」を回避するためや、事実として日本人が奴隷として連れて行かれている実態があったからだ。当時の白人は、有色人種をただの“労働者=奴隷”としか見ていなかった。白人による日本人拉致がこの時代に起きていて、それが豊臣秀吉時代に問題となった。鎖国は決して単純な“外国人差別意識”に基づく制度ではなく、そうなるまでに事情はあったのだ。
 ついでに京都の街の入り口に外壁が作られていて、そこが関所になっていた……ということもない。
 いや、別に時代劇は時代考証を徹底せよ……というつもりはないよ。「面白ければ何でも良し」だから、自由であっていい。時代考証に捕らわれてつまらなくなるくらいなら、自由に解釈して面白くするべきだ。歴史物を作る時にはそれくらいの自由があってもいいし、見る側も度量を広く持って見たい。
 じゃあ、『ブルーアイ・サムライ』の何に引っかかったかというと、現代的なポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)に準じたお話しにしていること。現代的なポリコレ的なテーマを打ち出したいがために、かつての日本では女性差別と外国人排斥をやっていました……。【ポリコレ的に正しい】テーマを描くために、歴史上実際なかったことをやっているし、「かつての日本ではこんな差別がありました。許せませんよね?」という嘘のメッセージを世界に向けて送り出している。
 時代劇が自由で面白いものであってもいいけど、嘘を世界に向けて広めるのはダメ。日本に対して悪意があるのか? と問い詰めたくなる。
 確かに日本には日本ならではの差別はあったのだけど、そこは描いてない。穢多、非人や部落差別……そういうのは一切描いてない。現代的なポリコレに準じた価値観のお話ししか描いていない。ポリコレ的に正しいかも知れないけど、それ以外は正しくない。そこが中途半端だし、薄っぺらく感じる部分。

 作品を見ていて、引っかかった……というのはこの前提設定だけで、それ以外の部分はどうか……というとめちゃくちゃに面白かった。アニメ本編はよくできているんだ。
 まずシーンの作り。かつての日本の風景が美しく描き出されている。どのシーンも構図が非常にいい。

 ただし、この関所はない。いったい何を参考に書いたんだよ。ぽつぽつと「ねーよ」という描写があるが、まあそこはご愛嬌。

 鍛冶仕事を宗教的に描いているところもいい。おそらく鉄を加工する仕事は、神事と結びついていた時期があったはずだから、鍛冶仕事を宗教的に描いているのは正しい。「鉄」のことも「かね」と呼ぶのも良い。近代に入るまで「鉄」は「かね」と呼んでいた。
(鉄の商品を「金物(かなもの)」と呼ぶところに名残が残っている)

 宇宙から隕鉄が飛来する……落ちた直後の隕鉄を手で触っちゃダメー! 触った瞬間、手が焼け落ちるほどの高温になっているはず。

 その隕鉄で鍛え上げられた刀。刀身が青く輝く。現実では、元々の土が赤かろうが青かろうが、叩いて精錬すれば白銀になるものだが、しかしこの鉄は宇宙から飛来した正体不明の鉄。ならば青い鉄ができたってよかろう。
 この青い刀身が、叩いた時に「カァァァン」と鉄らしい音がするのが心地よい。日本の時代劇ではあまりやらない音だ。

 『ブルーアイ・サムライ』のもう一つの見せ場はエロ。なんと無修正! 物理演算でぶらぶらと揺れ動く珍宝がしっかり描かれる。ただし、固くて大きくなった珍宝はダメみたい。
 こうして見ると、なんで日本は性器の修正をし続けてるんだろうなぁ……。日本人は「それが決まりだ」と認識しちゃったら、「なぜそれが必要なのか?」を考えず、「それがルールだから守れ」という考え方を持っちゃう。理性よりも習慣が先に来ちゃう。必要なくなっても、ルールだからやり続ける……という間抜けをやっちゃう。これが日本人の駄目なところ。

 第2話は裸祭り。大量の珍宝がぶらぶらする様子を拝むことができる。はあーありがたい(でもみーんな包茎だ)。アニメの中で、ここまでたくさんの珍宝を一度に見たのは初めてだ。

 第2話には泰源とアケミ姫とのセックスシーン。アメリカのドラマではセックスシーンはどの作品にもあるものだから、この作品でもとりあえずセックスシーンを入れよう……という感じだったんだろう(プロデューサーからのオーダーだったのかも)。「とりあえずセックスシーンやりましたけど」という感じで、気持ちが全然こもってない。あんなセックス、楽しくないだろ。エロくもないし。
 しかし、性描写は実はこの後、だんだん過激になっていく。アケミ姫は泰源とのセックスが初だった……というが、第4話で売春宿のおつとめするようになり、そこで見事な才能を発揮する。
 さらにこの作品、悪いやつはド変態……という法則があるらしく、その悪役の変態セックスっぷりがなかなか切れている。やっていることがポール・バーホーヴェンみたいになっていく。

 バトルシーンも作り込まれていて、見応えがある。第1話のこの場面、構えた瞬間に、脳裏に次の瞬間起きる様子が浮かび上がる。構えを変えるごとに、その直後の結末がじわじわと変わっていく。時代劇では、侍がこうやって向き合って構えを変える様子がよく描かれるが、その時侍の脳内でどんな光景が思い浮かんでいるのか、それを映像化している。

 斬れない大木。しかしミズはじっと精神統一し……ここだ、という瞬間、刀を持ち、一閃。大木が真っ二つに切り裂かれる。こういう日本的な描写はしっかりできている。

 アクション作画は全編において見事なクオリティ。第1話からよくできているが、エピソードが進むごとにどんどん先鋭化していく。欧米のアニメーターが素晴らしい実力を持っていることがよくわかる。

 ただし、アクションに「溜め」が全然ない。日本のアニメだと、アクションのメリハリを付けるために、「溜め」「つぶし」「のばし」という技法があちこちに使われるものだけど、そういう動きのメリハリが一切ない。すべてがすーっと繋がる。
 こういうところが日米の大きな違いで、欧米人にとって「絶対譲れない表現」のところ。日本的な美術の特徴は「省略」と「象徴化」と私は考えている。要するに『枯山水』がそれ。日本人は対象をさっと省略し、象徴的なイメージにすることができる。
 日本人はその省略と象徴化したイメージを、解凍して解読する能力が当たり前のように備わっている。なぜ日本人はあんなふうに漫画が描けて、誰でも漫画が読めるのか……という秘密がここ。ついでに、日本人って日本以外の国では考えられないくらい、絵が上手い人が多い。その絵が上手い秘密も、対象を省略化して捕らえているから。いわゆるなデッサン力に基づく絵の上手さとは、違う尺度を持っている。
 アニメーションの捉え方も同じで、動きをサクッと省略し、象徴的な動きのみを抽出する。そこで出てきた発想が、「止め絵」と「動く場面」とを分けたメリハリを付けた動き。演出も動き方も、すべてに日本的な美意識が宿っている。
 しかし欧米は、日本のように省略と象徴化して動きというものを捕らえることができないんだ。口パクでも、すべて繋がっていないと気持ちよくない。動画もすべて繋がってないと気持ちよくない。それが欧米人の生理。
 この違いを見ることが、この作品の正しい楽しみ方だろう。日本的な風景や文化をよく写し取っているが、しかし表現は欧米的。日本的な文化を描いているけど、欧米人の感性で譲れなかったとろこがそこ。この差異と、違和感が一番の楽しみどころだ。

 エロとアクション。しかしやっぱり一番よくできていたのはストーリー。なぜミズが戦うのか。そこに至るまでの展開がしっかりできている。だからこそアクションが際立つ。
 前提となる設定に変なポリコレが入っていることだけは引っかかるけど、それ以外のだいだい全てが良い。よくできている。

 この「ポリコレ問題」はかなり大きな問題で、いま欧米では「ポリコレ的に正しいかどうか?」が重要視される。ポリコレ的に正しく描写されていたら、それは良い作品だ。その反対であれば、作品が良くても駄目。評価をマイナスされてしまう。他の国の文化に対しても、ポリコレ的に正しいかどうか……という価値意識を押しつける。
 欧米人は実は「社会動物」的な性格が強く、その社会の中でそういう潮流が起きたら、全員がそれに染まってしまう(社会動物的なのは日本人だけの特徴じゃないのよ)。その中での価値観が絶対的になって、自分たちと同じ価値観にならない奴らは遅れている、野蛮人だ……とまで言っちゃうのが欧米人。ポリコレに同意しない奴らは全員愚か者だ……と差別的に扱っていい対象にする。
 こういう歴史ものを描く場合でも、歴史的な事実とか、その国の文化よりも、ポリコレのほうが上に来ちゃう。ポリコレ的な正しさばかり追求してしまう。歴史ものを描いても、ポリコレ的に正しければ称賛される。ポリコレ的に正しければ、事実が歪んでいてもOKという考え方にすらなっている。
 こういうのを客観的に見て、差別の対象が変わっただけで、内実は変わっていない。ポリコレを遠いところから見ていると、ああ馬鹿なことをやっているな……とただ呆れるだけである。いつまでこんなアホで間抜けな欧米白人の価値基準に付き合わされなくちゃいけないのだろうか。

 それでも、黒人の侍が出てこなかっただけマシか……。

 ただ、問題なのは最終8話。急に腰が抜けたようなシナリオになっている。展開がわざとらしい。キャラクター達が見えないレールに乗せられているかのように、理性的ではない行動をするのに、なぜかうまくいってしまう。ついでに、江戸全体が焼失するのだが、それも絵作りのほうを優先しちゃっているから、経過が強引すぎ。
 おいどうした、どうした。最後の最後でシナリオがふにゃふにゃだぞ。ここまでいい流れができてたのにな……。

 まとめると、変なポリコレで日本文化が歪められている、ということと、最終話がグチャグチャ……ということを横に置いといて、それ以外はめちゃくちゃに面白いです。余計なことさえしなかったら素直に面白いと言える作品なのにな。


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