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8月2日 人々が動物的に「最新情報」に追いかけ続ける理由。それは人間が「社会動物」だから。

 もう十数年も前になる話。アニメーターになるための勉強をしていた頃、私は一度、故郷に戻った。そのタイミングで、なぜか私に会いたい……という地元人たちがやってきた。私としてはさほど仲がいいわけでもなく(地元に友人は1人もいない)、何の用事だろうか……という感じだったが、とりあえず会うことにした。
 その時、私は勉強中だった動画を見せたのだが、同郷人は動画を見て、
「なんだよ、これ。ぜんぶ同じ絵じゃねーか。なんでお前、同じ絵ばっかり描いてんだよ」
 と言うのだった。
 いやいや、これは動いているんだよ。パラパラとやったら動いているんだよ、ほら、ライトボックスに透かしてみると、全部違う瞬間だってわかるだろう……。
 と、やって見せた頃には彼は私が描いたものになんて興味をなくしていた。
 結局あの集まりは何だったんだろうか……。当時も今もよくわからないイベントだった。

 この同郷人はバカなのだろうか? いや、違う。学校成績は私よりはるかに上。私と同郷の人に聞いたら、100人が100人、「彼のほうが頭が良い」と答えるだろう。
 ところが世間的に「頭が良い」というのは学校で学んだことをどれだけ取り出せるか……であって、それ以外のものに向けた知識や関心といったものは判断されない。学校で学んできた以上のものは学ぼうとせず、自分が特に関心を持たないものに対しては徹底して無知。世の中、そういうものだ……と当時理解した。
 もう一つ理解したのは、アニメーションなんだから、似たような絵を何枚も描くのは当たり前。でも実は、世の中的にはこれは当たり前ではなく、「意外」な話。私はこういう体験があったらから、「世の中の人は思った以上にアニメやゲームや映画がどうやって作られているのか知らないんだな……」と理解した。
(アニメーターを引退した後、一般職に移ったが、多くの人から「アニメーションの部分は人が描いているのではなく、コンピューターが自動的にガーッと描いているんだと思っていた」という話を聞かされた。世の中、そういうものなんだ)

 今回のテーマは、「世の中の人、アニメの知識がビックリするほどない……」という話ではなく、人が「社会動物だ」という話。最後の方で最初の話に戻ってくるのでご安心を。

 根本のお話しから始めよう。こういったお話しをするのに、私たちのような文明人を基本にしてお話しをすると、いろいろ間違いが出てくる。もっと人間の根源的な暮らしをしている人々、「狩猟採取民の暮らし」から見ていくとしよう。
 パプワニューギニアで狩猟採取の生活を送っている人々は非常にお喋りなんだそうだ。少しでも時間が空いたら、ひたすらに喋る。とにかくお喋りが尽きない。社会人類学者のジャレド・ダイアモンドは彼らがお喋りである理由を「情報交換のため」と考えた。話している内容をよくよく聞いていると、どこそこで飢餓が起きた、とか、どこそこで珍しいものが発見された……とか。狩猟採取民族は当たり前だけど、テレビもなければ新聞もない社会で生きている。そんな彼らがどうやって情報を収集しているかというと、世間話の中だった。この世間話は非常に効果が高いらしく、周辺の最新情報を常に仕入れることができたという。それこそ、新聞やテレビやネットがある私たちよりもはるかに近隣情報に詳しくなれるほどに(逆に新聞やテレビやネットは、自分の身の回りの情報や地元情報がぜんぜん入ってこないのだが)。

 そんなふうに狩猟採取民たちが最新の近隣情報を採り入れる理由は、ズバリ「生存」のためだった。どうしてそこまでお喋りなのか……というと新しい情報を得て、そのなかで悪い兆候が起きてないか確かめるためだった。もしも世間話のなかで悪い兆候を見付けたとき、彼らの行動は早い。嵐が来る、獣が大移動している……そういう話を聞いたらすぐに対応する。狩猟採取民は非常に警戒心が高い人々でもあった。
 もしもそういう兆候を見逃しでもしたら、自分だけではなく、部族全体が全滅する可能性もある。そういう危機意識があるから、狩猟採取民たちは常にお喋りをする。そういうお喋りをして、最新の情報を採り入れ続ける……ということが一つの「快感」になるよう、私たちの「本能」の部分でプリセットされている。私たちが常に最新情報を仕入れたがるのは、そういう本能に近い意識があらかじめ脳にセッティングされているからだった。

 ところが時代は変わり、情報の意味が変わってくる。ネット社会の現代、私たちはおよそ「生存」とはまったく無関係な情報・知識を常に採り入れることに夢中になってしまっている。新しい情報が発見できないとストレスになる……というくらい。もはや「新情報を知りたい」という「中毒」になっているのではないか……と疑うくらいに。

「いやー僕ちゃんってお金持ちだからさ、パパがなんでも買ってくれるんだ」……なんて台詞を書くと、あのメロディが脳内再生されるだろう。私もだ。記憶はいろんなものに関連付けして保持される。

 『ドラえもん』という作品の中にはスネ夫という少年が出てくる。スネ夫はいつも最新の玩具を友人達に見せびらかして自慢している。
 私にはスネ夫の行動が非常に奇妙に見えている。というのも、スネ夫が持ってくる玩具、というのは彼自身が作ったものではない。彼自身のお金で買ったものではない。そんなものを、自分の成果のように自慢する……いや、待て、君が自慢するのはおかしい。その玩具を作った人なら自慢してもいい、お金を出して買った本人であったら自慢してもいい。でもスネ夫が自慢するのは間違っている。
 でもスネ夫が持ってくるものを、子供たちは関心を持って、あるいは尊敬の眼差しで見ている。これはなぜなのか? 誰も「でもそれを作ったの、君じゃないでしょ」とは言わない。

 これが私たちが陥っている状態。私たちが日々追い回されている情報というものの大半は無意味なもの。ところが私たちは何を勘違いしているのか、最新の情報を知っている……ということに権威を与えてしまっている。
 最新の情報を知っている人はそのことを自慢する。最新の情報を知っている人を尊敬する。最新の情報を象徴する「モノ」を持っていたら自慢する(最新の玩具、というのは「具体化された情報」である)。場合によっては、最新の情報を持っている相手を妬んだりする。「最新の情報」そのものに価値を与え、それを一番に知る……ということを競争し続けている。
 コンテンツを作る人々は、そういう人間の心理を知ってか知らずか、そういう本能をうまく利用して、商品を売りつける。「我が社の最新のアイテムを買わないと、みんなから置いて行かれるぞ」……とメッセージを送り続ける。私たちは本能的にその情報を追わないと生存に関わるんじゃないか……という不安に駆られて、最新の情報を求め、最新の玩具を買おうとしてしまう。

 ランク付けをする……というのも情報の発信側がよくやっている策略だ。例えばスマートフォンゲームで時折実施されているランキングシステム。その中で上位になりたい、みんなから称賛を浴びたい……そう思った瞬間、過剰なくらいそのゲームにお金を振り込んでしまう。なぜそんな行動をするのか、というと「動物的」になっているからだ。スマートフォンゲームの作り手は、そういう人間の心理的な仕組みを知った上で、ランキングを公表し、お金さえ突っ込めばランキング上位になれる仕組みを作っている。

 実際に、そういう情報に追い回されやすいタイプのコミュニティは、最新流行のアイテムを持っていることが参加条件になる。いま話題のあの商品を持っていなければ、そのコミュニティに参加できない。最新のファッション、最新のコスメ、最新のスイーツ……。ひたすらに追い回される。みんな自分たちが作り上げたコミュニティに参加するために、無理してでも最新アイテムを手に入れようとする。その結果、犯罪まがいのものに手を出してしまう少年少女は少なくない。
 そういうコミュニティは自分で価値判断ができない、「動物的」なコミュニティであるといえる。ひたすらに目の前で巡り巡る情報に振り回され続けている。「情報の価値」という判断はない。目の前に何か横切ったから追いかけなければ……という状況に陥っている。

 そしてそういう価値付けされた情報から外れるものになると、急に無関心、あるいは無感情になる。自分でものの価値判断ができない。動物的に判定できる対象でないと、それが良いものか悪いものか……すらわからない。一見すると社会化に向けて訓練されているようでも、実は理性は動物的なまま……そういう人々がいる。

 これが一番危ないのは、「本当の危機」が起きたとき、すみやかに行動できないこと。例えば大地震が起きた後、「津波が来るぞ!」と知らせを聞いても、とりあえず様子見をする。私たちの本能は文明化の過程でバグってるから、「本当の危機」が迫っているときに行動ができない。周りの様子を見て行動する。周りがなにも反応してなかったら、何もしない……という判断をしてしまう。
 これが情報を動物的に判断している状態に起きる問題。コミュニティがその情報に反応しているかどうかで、行動するか決めてしまう。コミュニティが価値判断の中で一番重要なものにしてしまっている。自分で判断できない。狩猟採取民が当たり前のようにできた行動を、文明人の私たちのほとんどができなくなっている。これが危ない。

 ここで話は最初に戻ってくる。私の同郷人がどうしてアニメの動画を見てもまったくの無関心だったのか……(自分から「見せて」と言ってきたんだよ?)。それはアニメの動画に情報の価値なんて「ない」と判断されたから。絵の良い・悪いの判断もない。私の同郷人には、私がまったくの無意味なことをやっている……というふうに映ったのだ。
「なんで同じものを何枚も描いているんだ? 無意味でしょ」と。
 例え同じ絵だったとしても、絵の修行としては意義のあるものだったのだが。
(実際、アニメ学校ではひたすらに「ドラえもんの頭部を描く」という写経的課題がある。なぜドラえもんの頭部? ……と思われそうだが、実はドラえもんの頭部は精確に描こうとすると滅茶苦茶に難しいのだ。大抵の人は数枚描いただけで「やってられるか! ふぎゃー!」となる)

 話はここで終わらない。
 今から10年前や20年前は、漫画やアニメやゲーム……というのは「情報価値」というものがあれば最低ランクに位置付けされていた。だから誰も興味を持たなかったし、興味を持って見ている人は、それだけで「バカ」だと思われていた。ところが今はそうじゃない。今の若い世代は逆に、「オタクになりたい」とアニメを貪るように見ているのだとか……。
 オタクになりたい……という若者はおかしいのだろうか? いや、そうじゃない。アニメが世間的な情報価値の上位に来てしまったから、そういう状態になったのだ。最新のアニメを見なくちゃ。いま人気のキャラクターを知らなくては。さらにそのキャラクターのグッズを買わなければ……という状態に陥っている。最新の情報にひたすら振り回され続ける……動物的状態になっている。

 アニメやゲームが情報価値の対象になった……というところで世の中変わったな……という気もするが、私としては「いや、そうじゃない」と言いたくなってしまう。アニメやゲームって、情報に追い立てられて見たりするようなものじゃないでしょ……と。その作品が良いか悪いか、吟味し、語るために見るものでしょ……と。「今季やっているアニメ全部見てます」は「凄い」じゃなくて、ただの「バカ」ですから。
 そういう感覚から外れちゃったところでブームになっている現状に、「いや、そうじゃないんだけど……」という気分になってしまう。
(でもそういう人々がアニメビジネスを支えている……というのも事実だしなぁ)

 話はまだ終わらない。
 情報に振り回されやすい、というのは社会的地位・教養的地位の低い人たちの特徴であろうか? 教養や地位のない人々が情報に振り回されやすいのだろうか?
 実はそうじゃない。教養の高い人々、社会的地位の高いセレブ階層になると、すこし次元の違う形で情報に振り回されやすくなる。最近で言うと、ポリコレやSDGsやLGBT……。社会的地位の高い人がことあるごとにポリコレだのSDGsだのといったものを口にしたがるのはなぜだろうか? それはそれが彼らの階層で中心的な話題になっているからだ。
 ポリコレやSDGsやLGBTがいま世界の潮流! これに乗り遅れるとみんなから置いて行かれれるぞ!
 ……セレブ階層になるとこういう情報に振り回されるようになる。そこで高い投資をして、森を破壊し、ソーラーパネルをやたらと敷き詰めるようになってしまう。よくよく考えたら環境のためにぜんぜんプラスになっていない……ということに気付かず。「ソーラーパネルさえ導入すればSDGsだ!」みたいに考える。「LGBTを普及させるために制度を変えるべきだ!」……と実際の当事者の心境を無視してでも政治を変えようとしてしまう。
 Twitterで「スーパーマリオの映画を観たけれど、黒人もゲイも出てこない最低の映画だった! マリオをアフリカ系にするくらいやれ! 任天堂は遅れている」……と書き込んでいる人を実際に見かけて……笑っちゃった(いやぁ、こんな「バカ」が世の中にいるのか、と)。これを書いた彼は、動物的に情報に振り回されているだけで、自分の価値判断ができていない。自分が見た映画が「良い」か「悪い」かの判断もできない。良いか悪いかではなく「正しい」かどうか、だけ。きっと「世界の潮流に乗っている僕は偉い!!」と思いながら、ああいうのを書いたんだろうな……。バカだねぇ……。
 遺伝子組み換え作物や昆虫食といった潮流も全部コレ。「いま世界で最新の話題は遺伝子組み換えや昆虫食だ! これを採り入れない国は遅れている!」という焦燥感に捕らわれてしまう。流行のファッションアイテムに振り回されているのとたいして変わらない。「欧米ではいまこうなっている! 日本は遅れている!」……とか言いがちな人もコレ。話題の次元がちょっと違うだけで、同じように動物的行動だといえる。

 中にはここから進んで「陰謀論」にはまり込んじゃう人も多いのだとか。陰謀論にはまる人……というのは意外に経営者に多いんだという。最新の情報を貪欲に追いかけるからこそ、「いま世界はディープステートに操られている!」
 ……というところに引っ掛かりやすいのだとか。
 陰謀論は動物的に情報を追いかけていく過程にある「落とし穴」みたいなものなんでしょうな。まともな教養があれば「そんなもんねーよ」で終わる話なんだけどな。

 私は世の中の最新情報に対し、まったく興味がない。
 こういう話をすると「格好を付けて興味がないフリをしているだけで、本当は興味あるんだろ」と言われるけど、本当に興味がない。だって、「意味ないでしょ、それ」とすぐに気付くから。世の中が大騒ぎになっていることでも、だいたいは「知らんがな」で終わる。
 私が興味あるのは、私が向き合っているもののクオリティのみ。映画の画がしっかりできているか、とか、シナリオがよくできているか……とか。そういうものにしか興味がない。
 どうして私のような人間がいるのか……というと、おそらくこれもカタストロフを回避するためなのではないかと思う。最新の情報を追いかけ続けるのは、元々カタストロフを回避するためだった。近隣で天候の異常はないか、森の獣に異常はないか……こういうことに日々気を配っていることが、部族のカタストロフを回避することに重大な意味があった。だから多くの人は最新の情報に振り回され続ける。
 私のような異端者が生まれてきちゃう理由は、「欠陥があるから」ではなく、みんなが盲目的にカタストロフに向かっているときに「それは違うよ」とツッコミを入れるためなんだろう。それもカタストロフを回避するための、一種の機能なんだろう。
 私のような人間がいなければ、レミング的なカタストロフがやって来たときに回避できない。私のような人間がいなければ、新しいものは生まれない。

 ……ただし、その「もしも」の事態が起きる時まではただのはぐれ者なんだけどね。


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とらつぐみ
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