映画感想 ゲティ家の身代金
最近、実録もの映画が連続しているが、今作も実録もの映画。2017年、アメリカでは12月25日のクリスマスに公開の映画『ゲティ家の身代金』(とんだクリスマス映画だ)。監督はイギリスが誇る巨匠リドリー・スコット。今から50年前に起きた事件を、虚実織り交ぜながらエンタメ大作として描き上げる。
脚本はデヴィッド・スカルパ。『ラスト・キャッスル』『地球が静止した日』の脚本家で、本作の脚本は「ブラックリスト」――映画化前の優れた脚本のことをこう呼ぶ――に入れられていた。リドリー・スコットがこの脚本を気に入り、映画化に向けて企画が動き始めた。
撮影監督はダリウス・ウォルスキー。ポーランド出身のカメラマンで、『プロメテウス』『悪の法則』『エクソダス:神と王』など最近のリドリー・スコット映画の常連である。
映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば、批評家支持率71%。平均点は10点満点中6.9点。「そこそこ評価は高い」という判定が出ている。
もう一つ、特記事項としてはジャン・ポール・ゲティ役はもともとはケヴィン・スペイシーだったが、しかし撮影が終了した後に淫行が発覚し、急遽クリストファー・プラマーを代役に再撮影となった。スタッフを招集し、解体したセットを再構築し、すでに撮影されたシーンと同じものを役者を変えて撮影する……。しかもジャン・ポール・ゲティの登場シーンはかなり多い。それでも最撮影はわずか10日間で終了。クリストファー・プラマーはこの映画での演技が大絶賛され、第90回米国アカデミー賞助演男優賞受賞、第71回英国アカデミー賞助演男優賞という栄誉がもたらされた。
私も映画を観た印象として、ジャン・ポール・ゲティ役はケヴィン・スペイシーではなく、クリストファー・プラマーで正解だった、という気がしている。というのも、ケヴィン・スペイシーでは若すぎる。クリストファー・プラマーの名演を見た後だから……かも知れないが、ケヴィン・スペイシー版の存在が不思議に思うくらいだ。クリストファー・プラマーがアカデミー賞を受賞するのは、これで2回目である。災難が運命を引き寄せた……というところか。
ただし、ワンシーンだけ引っ掛かったのが、1948年サウジアラビアのシーン。この時、ジャン・ポール・ゲティは56歳。この頃の写真も残されているが、もっと若かったはず。どうしてメイクで若返らせなかったのだろうか。
では映画のあらすじを見ていこう。
1973年7月10日午前3時。15歳のジャン・ポール・ゲティ3世がローマのファルネーゼ広間で誘拐された。
いきなり誘拐事件の話をする前に、しばし時を遡ろう。
1903年、ジャン・ポール・ゲティの父親であるジョージは石油会社を設立し、財を成していた。ジョージの死後、ジャン・ポール・ゲティが会社を引き継ぐ。
1948年、サウジアラビアの広大な土地を買収し、中東石油利権を一手に獲得する。石油会社を中心に40社におよぶ関連会社を設立し、フォーチュン誌で世界一の大富豪に選ばれた。いや、歴史上最大の富豪であった。
1965年のプレイボーイ誌の取材でこう答える。
「資産が数えられるようでは、本当の富豪ではない」
その息子ユージンは失業し、一家は破産していた。ユージンは父であるジャン・ポール・ゲティに頼って仕事がもらえるよう手紙を書く。すると、いきなりゲティ・オイル社の副社長で、ヨーロッパ事業を任せられることになる。
だがユージンは莫大な資産とプレッシャーに押し潰されてしまう。数年後、ユージンは売春婦をはべらし、麻薬中毒になっていた。
そんな男に息子・ポール少年を任せるわけにはいかない……とユージンの妻・アビゲイル・ハリスは離婚を決意する。
その離婚協議の場で、アビゲイル・ハリスはこう言い放つ。
「ゼロよ。お金はいらない。扶養料も慰謝料も。財産分与もよ。子供の監護権だけもらいたい。息子をモロッコから今夜中に私のもとに帰らせて」
慰謝料も財産分与もいらない。息子だけ返してくれ。この条件で、アビゲイル・ハリスは息子を手にするのだった。
この離婚劇が1971年。ポール少年が誘拐されたのは、その2年後のことであった……。
誘拐が発覚し、ジャン・ポール・ゲティ家の屋敷にマスコミが押し寄せる。
その時のやり取りがこれだ。
記者「脅迫状が届いたそうですね。お孫さんの筆跡で要求額は1700万ドルとか」
ゲティ「1700万ドルは、子供の身代金としては高すぎる」
記者「お孫さんを助けるためにどうします?」
ゲティ「何もしない。私には孫が14人いる。金を払えば他の孫も誘拐される。今回の額は高すぎる。そう思わないか」
記者「お孫さんの命に見合う金額とは?」
ゲティ「ゼロだ」
ここまでが前半30分。
ジャン・ポール・ゲティがどのように資産を築いたのか、ポール少年の親がどんな人物で、どんな経緯があったのかが語られ、それから1973年7月、ポール少年が誘拐されたシーンに繋げられている。
ポール少年が誘拐された時、ゲティお爺ちゃんはまったくの無関心で、コンピューターが打ち出す株取引の数字をじっと見詰めていた。
やがてマスコミがやってきて、コメントを求められるが、「身代金を支払うつもりはない」と断言する。
予告編で「異常な事件」という文字が大きく掲げられているが、その「異常」さの中心にいるのがこのゲティお爺ちゃん。孫が誘拐されたというのに、身代金を払う気はない。だというのに、一方では美術品には大金をつぎ込んでいる。おぞましい話だが、この辺りの描写は実話なのだ。少年の母親でなくても頭を抱えるような事態が、ゲティお爺ちゃんを中心に起きてしまう。むしろ誘拐犯のチンクアンタのほうが真っ当な人間に見えてしまうくらい。誘拐犯のほうがまともな人間に見えてしまう……というのがこの事件の異常さだ。
それではゲティお爺ちゃんがどういった人物だったのか、というところから掘り下げていこう。
映画のはじめのほう、ポール少年がゲティお爺ちゃんを訪ねるシーンで、ゲティお爺ちゃんが自分で服を洗濯しているシーンがある。
「洗濯物が散らかっているが、ルームサービスを頼む気になれないんだ。下着を洗ってもらうのに10ドルも払えない。自分で洗えばたったの数リラで済むのに」
資産家なのに10ドルでも出し渋る……それがゲティお爺ちゃん。このシーンは映画中の創作ではなく、実話だ。
他にも、訪問客が電話をかけると「電話代」がかかる。他人の電話代をなぜ私が払わなくてはならないのか、と屋敷の中に電話ボックスを作り、訪問客に自分で電話代を支払わせていた。
着ている服は、「見栄えが良いもの」よりも「長持ちするもの」を中心に選んでいた。軟膏のチューブは搾りきるまで使っていた……などなど、ゲティお爺ちゃんドケチ伝説は一杯あるようだ。
とにくも異常なほどケチだったのだ。興味があるのは、自分の資産が増えるかどうか。自分の資産が少しでも減るのが許せない。病的なくらいに、お金を減らすことに神経質だった。それで誘拐事件が起きた時、「お金がもったいない」という理由で身代金は支払わない。それどころか、誘拐犯相手に値切り交渉をしていたそうだ(映画には描かれてない)。身代金1700万ドルは、資産数十億ドルのゲティお爺ちゃんからすれば、はした金だっただろうに。
後にようやく身代金を支払うことになったが、気にしているのは「身代金が控除対象になるかどうか」で、どうやら控除対象にならないと見ると、身代金はあくまでも人質となった少年と母親に「貸し付ける」ものであって、「後で利子を付けて返せ」という。
確かに現在では誘拐犯にお金を払わない……というのは通常のことで、お金を払って解決するよりも、いかにお金を払わず、人質を無事に救出し、誘拐犯を逮捕できるか、ということのほうが中心になっている。この事件はそういう話ではなく、ゲティお爺ちゃんが「資産」に取り憑かれ、「資産を減らしたくないから身代金も払いたくない」……という動機で話が進んでいく。
その一方で、ゲティお爺ちゃんは美術品に対しては惜しまずお金を注ぎ込んだ。映画中でも、誘拐事件で大騒ぎしている最中だというのに、数百万ドルの絵を即金で購入している。これも恐ろしいことに実話。孫への身代金は出さないが、美術品にはお金を出す。常人では理解しがたい感覚の持ち主だった。
ではゲティお爺ちゃんの「目利き」としての能力はいかほどだったのか?
作中、「フェルメールの作品」としてこの作品が登場する。
フェルメール関連の書籍にはよく出てくる作品なので知っている人も多かろうと思うが、実はこの作品はフェルメール作品ではない。フェルメール研究者によって、一時は「フェルメールの作品!」として持ちはやされ、後に「贋作!」の烙印を押された作品だ。
作者にとっては迷惑の極みのような話だ。フェルメール研究者によって勝手にフェルメールの作品として持ち上げられ、その後で「ニセモノ」扱いされたわけだから。結局、この作品は誰が描いたのか、今もって不明。今のところ「フェルメールのニセモノ」という扱いを受けているこの作品だが、将来的には「○○の作品」として再評価されるかも知れない。とにかく、今は「誰か」の作品ではなく「フェルメールのニセモノ」として知られる作品だ。(フェルメール作品だと一時とはいえ思われていたわけだから、クオリティは高い)
この作品を「フェルメールの作品」として屋敷の中に掲げている(作中で「これはフェルメールの作品か」と発言したのはゲティお爺ちゃんではなくフレッチャー・チェイスだが)。ということは、ゲティお爺ちゃんの鑑定能力は「かなり怪しい」……と。その示唆として、この作品が取り上げられている。
ゲティお爺ちゃんの鑑定能力があやふや――これは後の伏線になっている。
そのゲティお爺ちゃんだが、ある妄執に取り憑かれている。
映画のはじめのほう、ローマの遺跡を訪れる場面がある。あの場面にどんな理由があるかというと、あれが後にゲティお爺ちゃんが建造する美術館の元ネタとなる場所だから。映画中でも後半のほうで「これから作る美術館の模型だ」と披露する場面があるが、それがあの遺跡を再現したもの。
この遺跡跡――ヴィラ・デイ・パリピからは様々な彫像が発掘されている。様々な美男子を象った彫像、それからヤギと半獣人の「獣姦」を描いたなかなか凄い彫像もある。特に大量に発掘されたのが、頭部のみの彫像。様々な(当時の)偉人を象った胸像が発掘されている。
これは映画のネタバレになるのだが、最後のシーンでこの胸像が一杯出てくるシーンがある。その胸像のなかに、ゲティお爺ちゃん自身を象った胸像がポンと出てくる。まるで自分がローマ時代の偉人であるかのように。
ゲティお爺ちゃんがローマの偉人達と自分を並べたかった……ということがここからわかる。そんなシーンをわざわざ描いたのは、「身代金事件」をエンタメ的に描いた作品というだけではなく、「ゲティお爺ちゃん」という人間そのものを描きたかったからではないか。
本作はゲティお爺ちゃんの異常とも思える心象を描いた作品でもあるが、しかし突き放してもいない。もしかしたら――リドリー・スコット監督も美術家だ。リドリー・スコット監督も80代に入り、ゲティお爺ちゃんと同じ年頃、しかもリドリー・スコットもお城(のようなお屋敷)に住んでいる。どこか共感するところを見付けたのかも知れない。
ゲティお爺ちゃんが人間不信に取り憑かれた理由もわからなくもない。あまりにも大きな資産を手にしてしまったために、そのお金を引き寄せられて亡者達が集まってくる。金をかすめ取ろうという連中が集まってくる。石油会社を作ったというのは父親の代で、それからは莫大な資産を手にした若者時代があった。自分が社長になってからは、さらに莫大な資産を手にしてしまった。そうした時代に、何か語られないトラウマがあったのかも知れない。
人間は信用できない。その代わりに「物」に対して異常な愛着を示し始める。その嗜好は美術品に集中し始める。
大きすぎるお金を手にしてしまうと、人間はなかなか真っ当な人生を送ることはできない。
まずポール少年の父親はやがて麻薬中毒に売春宿に入り浸りになる(セックス依存症もあったかも知れない)。
長男は石油会社の全責任を任せられたが、49歳の時にストレスから自殺。他にもゲティ家の人間はまともに生きて、まともに死んだという人はなかなかいない。麻薬依存、謎の不審死……。他人は信用できないから、親族を重役に据えてに経営を任せるのだが、みんなプレッシャーからアル中や麻薬中毒、さらには不審死……。ゲティお爺ちゃんはここでも苦悩していたかも知れない。
お金持ちになると何かと狙われやすくなる。ゲティお爺ちゃんが死んだ後は、その遺産を巡って骨肉の争い……(『犬神家の一族』みたいだ…)。大きすぎるお金は人を狂わすのだ。
そのゲティお爺ちゃんが建造した、ローマの遺跡を原型にした美術館は現在も「J・ポール・ゲティ美術館」としてロサンゼルスにあり、人々が集まる場になっている。ゲティお爺ちゃんが現世に唯一残した有形のものがこの美術館だろう。
映画中、身代金騒動の真っ只中でゲティお爺ちゃんが購入した絵、というのが「聖母子像」。ゲティお爺ちゃんは、自分を庇護してくれる存在を求めていたのだ……。
次に、孫であり、今回の事件の被害者、ポール少年の人物像を見てみよう。
冒頭のローマのシーンから、売春婦を冷やかしているところから始まる。この時、ポール少年は15歳だ。
父親が麻薬中毒になり、売春婦を抱いて寝ているモロッコのシーン、ポール少年はパンツ姿で現れる。それを見て、「あ、こいつ……」と私は思ってしまった。その後に、「父親の生活は楽しかった」と語る場面はある。もしかしたら麻薬と売春婦の生活をポール少年もいくらか体験していたのかも知れない(ポール少年は当時13歳だが)。
両親が離婚し、ポール少年は母親の元へ引き取られていくのだが、その後もポール少年は相当な放蕩生活だったようだ。ローマ旅行で売春婦あさりをやっていたら、誘拐されてしまった……というのが今回の事件だ。
誘拐事件の直後、「ポール少年の狂言誘拐じゃないか」としばらく本気で捜査されなかった……というのも本当のことである。
事件の後、ナイトクラブに入り浸り、麻薬中毒になり、アルコール依存症にもなった。一時は死地を彷徨うほどだったが、その後回復し、快復後はようやくまっとうな生活を始めるようになったが、54歳で死去している。事件の被害者だが、事件前からかなり無軌道な暮らしをしていたようだ。
さてポールの母親、アビゲイル・ハリスはどうだろうか。アビゲイル・ハリスに関する記録はほとんどない。わずかな写真が数枚と、当時マスコミに語ったインタビューが数本あるだけ。そこから人物像を掘り下げて、映画の主人公として相応しいキャラクターを作り上げていった。まともな人間がいないゲティ家の中にあって、唯一の理性。誘拐犯、ゲティお爺ちゃん相手に、果敢に、知的に交渉に挑む強い女として描かれた。
リドリー・スコット映画といえば「強い女性」「戦う女性」が主人公になる作品が多いから、リドリー・スコット映画らしい人物像であると言える。
1970年代といえばまだ女性の地位は低く、女性からの意見はまともに聞いてくれない……そういう中にあって、いかにして立ち回るか。夫と離婚するシーンでも「慰謝料も財産分与もいらない。息子だけを返して」と、ゲティ家の弁護士相手に啖呵を切る場面は痛快だ。こういう時代だから、男性よりも理性的で勇ましく立ち振る舞わなくてはならない当時の事情が見えてくる。
人物像については不明なところがあるのが、住んでいる家はフラットじゃないだろうか。ゲティ家の息子とは離婚したが、その後独力でそれなりの資産を築いたようである。どんな仕事をしていたかわからないが、夫がいた頃よりも生活水準が上がっている。そうした独立心のある強い女性として表現するために、夫がいた時代よりもわざわざいい家を描いたのだろう。
ここまでに見てきたように、単純な「身代金事件」を描いたわけではない。誘拐事件を描いた映画はたくさんあるが、その中でも、『ゲティ家の身代金』は際だって「異様な」作品になっている。
主人公はもちろんポールの母親、アビゲイル・ハリスでその視点で描かれるが、その一方でゲティお爺ちゃんの人物像が掘り下げられていく。普通にエンタメ映画として『ゲティ家の身代金』を描こうとした場合、ゲティお爺ちゃんを悪役にして、いかにしてお金を引き出すか……という話にすれば良い。しかしゲティお爺ちゃんを掘り下げるエピソードがやたらと多い。
ゲティお爺ちゃんの元に送られてくる手紙の話、ローマ遺跡を巡る話……身代金事件のお話を描く、ということを考えた場合、これらのシーンははっきり不要だ。さらに映画の最後には、ゲティお爺ちゃんが死ぬ場面まで描いている。ゲティお爺ちゃんが死んだのは誘拐事件の最中ではなく、事件終結の2年後。それを前倒しして描いたのは、身代金事件を通してゲティお爺ちゃんを描きたかったから――これこそが本作の真のテーマだったのではないか。
異常なほどケチで、人間嫌いで、「孫を愛している」と言いながら身代金支払いに渋る……矛盾に満ちた奇妙な人間。身代金事件を題材にしたのは、「身代金誘拐」が本テーマなのではなく、ゲティお爺ちゃんの人間の異常さを描くのに、格好な題材だったからではないか。
もしかしたら、同じく80代に入ったリドリー・スコット監督の“共感”がそこに込められているのかも知れない。
自分はローマ時代の偉人と並ぶ人間だ――そういう自己意識を持っていたゲティお爺ちゃん。実際、歴史上最大の資産を築いた人間という偉業を達成した(リドリー・スコット監督も映画界の偉人だ)。だがその老人に振り回されたゲティ家の人々は、果たしてどのように感じていたのか……。アビゲイル・ハリスの視点で描いているから、周りがどのように老人を評価していたかが見えてくる。偉大な人間である一方、誰からも愛されなかったし、誰も愛さなかった。そんなゲティお爺ちゃんが人生の最後に買ったのが「聖母子像」の絵で、それを抱いて死亡する。映画のラストシーンに、それが凝縮して描かれているように思える。
その一方で、エンタメ映画として誘拐事件がやたらと面白く描かれている。面白くなっているのは、あらゆる点で「駆け引き」が存在していること。アビゲイル・ハリスを中心に、誘拐犯と同時にゲティお爺ちゃんとも交渉しなければならないという状況。
さらに映画の中盤辺りから、ポール少年の身柄はイタリア田舎のごろつきから、イタリアン・マフィアに移される。ここからは警察も信用ならない相手になってしまう。誘拐犯、ゲティお爺ちゃん、警察と、何重にも緊張が張り巡らされる。
エンタメ映画を面白くするのは「プラスの法則」だ。『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦提唱した法則で、バトル漫画は力のぶつかり合いの話だけでは面白くならない。相手が出したカードに対して、いかに“有効”な手を出すか。その連続がエンタメ映画を面白くする。『ゲティ家の身代金』はこの法則通りに、次々にカードを切るが、さらに次の問題が……と絶対に面白しろくなるように作られている。単純に誘拐事件だけを追いかけても面白い映画になっているはずだ。
さらに、リドリー・スコット監督の映像。どのカットも緊張感に漲っている。モロッコの朝日、何気なく出てきたビルから街を見るシーン、屋敷のシーンは全てが美しい。リドリー・スコット印の「動くアート」は本作でも健在だ。
エンタメ映画として、ゲティお爺ちゃんという人物を掘り下げる映画として、美しい映像絵巻として……と何度見ても楽しめる映画だ。
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