映画感想 ドラえもん のび太の新恐竜
ドラえもん映画5本目! ドラえもん映画通算40作目で、ドラえもん40周年記念作品。ドラえもん映画史上最高傑作の登場である。
監督は今井一暁。脚本は川村元気。2018年公開の『のび太の宝島』以来2度目のコンビで、当時のリベンジを狙う。
作画監督は小島崇史。小島崇史は1986年生まれのアニメーター。『新世界より』で作画監督を務め、『劇場版魔法少女まどか☆マギカ』『四月は君の嘘』『デス・パレード』『フリップフラッパーズ』などの原画を務め、最近では『平家物語』でキャラクターデザイン、総作画監督を務める。作画については後ほど触れよう。
興行収入は残念ながらコロナ禍ということもあり、公開が半年延びた上に、もともと3DCG映画『STAND BY ME ドラえもん2』同日公開の予定も崩れ、プロモーションの足並みが崩れた状態の公開ということもあり、あまり振るわず33.5億円。ドラえもん映画は近年は新作の度に40億円、50億円と記録を伸ばしていた最中だったが、ここに来て一気に勢いを落とすことになる。この影響は次回作にも持ち越すのではないか……という懸念があるが。
それでは本編のストーリーを見ていこう。
舞台は恐竜博物館。恐竜の立体模型を見ているのび太は、「この世界のどこかに恐竜がまだいるかも知れない!」と興奮気味に語るが、スネ夫は「恐竜は6600万年前にいなくなったんだよ」と冷めた声で返す。恐竜は隕石の落下により、一度に滅んでしまった……そのように考えられていた。
恐竜の化石を見た後は、「恐竜化石発掘体験コーナー」で一時を過ごす。みんなが石の中から化石を見つけ出しているのに、のび太はなかなか化石を見つけられない。
ジャイアンとスネ夫にからかわれるのび太は、思わずこう宣言する。
「化石くらいなんだ! 僕は宣言する! 化石なんかじゃない! 生きた恐竜を見つけてみせる!」
のび太はその化石発掘体験コーナーの端っこに転がっている石ころを「恐竜の卵に違いない」と思い込み、それを持って帰宅するのだった。
帰宅し、ドラえもんから【タイムふろしき】を借りてその石ころを包み、待つこと一晩……。それは果たして恐竜の化石であった。しかも間もなく化石にひびが入り、中から双子の恐竜が顔を出す。
ドラえもんはすぐにでも【宇宙完全大百科】でなんの恐竜か調べようとするが、なんとその中にも描かれていない。新発見の恐竜だった。のび太はその恐竜に『ノビサウルス』と名付け、双子の赤いほうをミューと、黄色のほうをキューと呼ぶことにする。
ここまでで前半15分。
タイトルに『のび太の新恐竜』とあるが、あの名作にして記念すべき第1作目『のび太の恐竜』とはまったくの別作品。最近の研究に基づいた新しい作品となっている。
作中オリジナルの恐竜を見てみよう。
通称『ノビサウルス』をのび太が最初に触れた時、のび太は「暖かい」と言う。ということは「恒温動物」である。旧作の時代は、まだ恐竜はは虫類の一種と思われ、「変温動物」という認識で描かれていたが、新作では最初の段階で恐竜を恒温動物とはっきり明言している。
食は雑食性。肉でも穀物でも草でも食べるようだ。後のシーンで魚を食べているシーンが多いから、野生種は魚を主食としていると思われる。
歯並びについてだが、歯はほんの少ししか描かれていない。これは恐竜を可愛らしく描くためなのか、実際に歯の少ない種なのかは判別つけづらい。もしかしたらその後、「鳥」へと進化する端境の種であるから、歯は退化しかけている最中……という表現だったかも知れない。
(しかし食べたものを口の中で「ボリボリ」と噛み砕くシーンはあった。歯は描かれていないだけで、ただ「牙」が少ない……ということだったかも知れない)
大きさについてだが、見たところダチョウくらいの大きさ。成獣になっても、やはりダチョウくらいのサイズ感は変わらないようだ。恐竜時代においては、かなり小さい方だといえる。
大型種の恐竜はまもなく時代の現界を迎えて死滅し、その後は小さい哺乳類や鳥類が地上を支配していくことになる。そういう「次の時代」を意識して、小型種の恐竜を構想したのかも知れない。
恐竜の表現は、最新の研究を反映して、よりリアルさを追求していったのに、しかし主人公となるノビサウルスが虚構で、しかも「アニメキャラクター」として描かれている。この辺りが本作の大きなポイントとなっている。
間もなく恐竜時代へ行くのだが、恐竜たちはCGで表現されている。CGで表現するだけではなく、「動き方」がのび太達やノビサウルスとまったく違う。のび太達は躍動感ある線画で表現されているのに対し、恐竜たちは純然たる「動物」としてアニメーションが構築されている。旧作では「恐竜」と「キャラクター」間の表現の差異がなかったが、本作では見た目、動きともに全くの別モノとするためにCGが採用されている。
こうしたアニメでCGキャラクターを介在させる時の難しさは、「写実」に寄せてはいけないことである。写実に寄れば寄るほど、『ドラえもん』の柔らかな作品世界から浮いてしまう。写実に寄せてはいけないが、リアル感を表現しなければならない……という厄介な課題をクリアしなければならない。本作の場合、背景絵の密度感に合わせて表現する、ということで「表現が浮いてしまう」現象を際どく回避している。
……ただポリゴン数はもうちっと多くした方が良かったかな。
問題となるのはノビサウルスの表現と、その他の恐竜の表現差である。どうしてこのような表現差を採用したのかというと、新種『ノビサウルス』は飽くまでも虚構ですよ、という前置きをするためでる。ノビサウルスは実在種ではないから、実在種とは別の質感として描く。
CG恐竜と手書き恐竜の質感を分けた効果は、【ともチョコ】で仲間に引き入れた恐竜も手書きの「キャラクター」になる、というところで「わかりやすさ」に繋がっている。
時代は旧作『のび太の恐竜』が1億年前。本作は6600万年前という時代を描いている。6600万年間は恐竜時代の末期だ。メキシコに巨大隕石が落ち、大型恐竜が一度に死滅したと考えられる時代である。
ところが恐竜はその後も生きていた。恐竜がどうやって生きのびたのか、その後どうなっているのか……恐竜研究の間でも「?」の空白期間である。どうやって生きのびたか不明だが、とりあえず化石は残っている……という謎。本作は『ドラえもん』ならではのファンタジーを当てはめて描き込んでいる。
実際の恐竜研究の成果となる部分は可能な限りリアルに描き、作中の推測で作られた部分は「アニメ」として描く。これが本作におけるエクスキューズとなる。こうすることで、「ここからは飽くまでも虚構ですよ」という前提で物語が進められていく。
恐竜映画の代表作といえば『ジュラシックパーク』、『ジュラシックワールド』があるが、こちらの作品でも次第に遺伝子操作で作られた「虚構の恐竜」が登場してくるが、そこで実在恐竜と虚構恐竜との質感の差異をつくることはできなかった。その一方で、質感の差異をするっと作り、同居させられることができたのは、アニメの優位性の産物である。
次に物語と演出を見ていこう。
冒頭の恐竜博物館のシーンで、のび太はやや大きな石ころに躓く。この時、背後では「恐竜博士」というキャラクターが演説めいた台詞を口にしている。
「世界にはまだ発見されていない恐竜がたくさんいるんだよ。進化の過程にあるべきなのに、まだ見つかってない。そんなミッシングリングを埋める新恐竜を、もしかしたら君たちが見付けることがあるかも知れない。その時は、君たちの名前のついた恐竜になるかも知れない」
という台詞の最中に、のび太は恐竜の卵に躓き、その次のカットで2羽の小鳥が飛んでいるカットが差し挟まれる。ここからのび太が拾った「恐竜の卵」が、恐竜博士の語る「ミッシングリングを埋める恐竜」であり、「恐竜と鳥」の端境のような存在であることが示唆される。
次に引っ掛かるのがこの恐竜博士の存在。キャラクターとして妙に立っている。物語の端役としては、キャラクターがしっかりしている。しかも声は小野大輔だ。存在感がありすぎて、見ていると妙に引っ掛かるし、ここにしか出てこないキャラクターというのは何かヘンな感じがする。
やがて6600万年前の過去へ生き、タイムパトロールのジルと会う。このジルが、恐竜博士にやたらと顔が似ている。キャラクターデザインの作法としては、NGというくらいに似ている。通常のキャラクターデザイン作法でここまで似せてくるなんてことはあり得ないから、「似ていることに意味」があると考えるべきだろう。
(Wikipediaで確認すると、実はこの2人、子孫と祖先という関係なんだそうだ)
前半、恐竜博士のもとに何度ものび太が訪ねて「恐竜の育て方を教えて」「恐竜の病気の治し方を教えて」と質問し、恐竜博士はそれに答える役を引き受ける。物語に介入せず、大人の立場から、のび太を見守る役割になっている。
それで後半のジルの役回りが見えてくる。ジルは後半、のび太達の行動に対し、手を出さず「見守る」という選択を採っている。なぜかというと、役回りが「恐竜博士」と一緒だから。「どうしてジルは、のび太達の行動に対して手を出さないのか」……とよく言われる疑問だそうだが、そういう役割として作られているから……というしかない。
ところでのび太が恐竜を育てるという経験は2回目である。かつてフタバスズキリュウも育てたし、それに続いてノビサウルスも育てることになる。
しかし、おそらくはパラレルワールドになっているのだろう。というのも、ジャイアンとスネ夫の反応が、明らかに「初めて」の反応だ。
それにのび太が旧作『のび太の恐竜』で行った場所、というのは1億年前の世界である。
(本作で間違ってきてしまうのが1億年前……こういうところでも『のび太の恐竜』が意識されている)
実は本作にも後半に入り、フタバスズキリュウが登場する。この時のフタバスズキリュウは、もちろん『のび太の恐竜』とは別個体。パラレルワールドの世界になっているのだが、どこかに「先祖の記憶」が残っていて、あるいは語り残されていて、海の落ちた人類種を助けようと行動したのである。
あるはずのない記憶だけど、ぼんやりとした記憶の中にあるのび太の記憶を感じ取って助けようとする場面は、本作の中でも名シーンである。
(それだけに、後半のシーンでフタバスズキリュウが助けられなかったのが残念。水棲恐竜だから見逃されてしまった)
少し作画について取り上げよう。
本作は2018年『のび太の宝島』の監督&脚本コンビの作品だが、作画監督に小島崇史をつれてきたことが大きい。今井一暁監督作『のび太の宝島』でずっと引っ掛かっていたのが作画の不完全さ。この不完全さは、前回の感想文にも書いたとおりである。
しかし本作の作画は圧倒的にいい。どのシーンもレイアウトがしっかりしている。空間の広がりが描かれて、その中をキャラクターが走り回っている躍動感が気持ち良く感じられる。ほとんどのシーンがフルサイズ。キャラクターよりも空間を中心に据えられている。影なし作画であるが、その代わりにハイライトだけが描かれ、光が当たるシーンになると輪郭線が色トレス線で表現される。これがキャラクターに光が当たっている感じがよく出ているし、シンプルな色彩で作られたキャラクターだけど「美しい…」とうっとりと感じてしまう。
キャラクターの作画だけど、とにかくよく動く。止まらない。『のび太の宝島』は無駄に動いているだけで、それが映画的な雰囲気を薄めてしまっていたが、本作の動きはその逆で映画的なトーンをしっかり抑えてくれている。
後半に入り、恐竜に襲われる場面をかなり広い画角で、それぞれのキャラクターが動き回っている様子が描かれている。この時の躍動感、緊迫感が凄まじい。
本作には、キャラクターだけではなく、「何でもないもの」がやたらと描き込まれている。鳥であったり猫であったり……そういうモブキャラが本作ではやたらと多いが、そういうキャラクターでも作画がいいから存在感があるし、映画的な雰囲気を高めてくれている。
ドラえもんはキャラクターがシンプルな線と色で表現されるから、映画的なトーンを維持するのが難しい。ふとすると安っぽくなってしまう。構図をこだわらなくてはならないし、しっかり動かさないと安っぽさばかりが出てしまう。ドラえもん映画の画作りは、ドラえもんというキャラクターゆえに難しい。もしもキャラ絵がリアル寄り、背景がリアル寄りであれば、「映画的な画」は難しくないのだが、『ドラえもん』はこういうところが難しい。
実はドラえもん映画を5作連続して観ていて、なかなか「映画的な画」に行き当たらないな……と感じていた。画で満足いったいのは『のび太の南極カチコチ大冒険』。それから本作『のび太の新恐竜』の2本だけ。
(『のび太の南極カチコチ大冒険』はデザイナー感覚の尖った感性が良かったが、本作のほうが映画的な空間表現のほうを重視されている)
こういう絵の強さを見せてくれたのは、やっぱり作画監督・小島崇史の実力の高さ。いい絵を作ろうと思ったら、実力のある作画監督が必要だということがよくわかる。同じ監督作品でも、作画監督を誰を連れてくるかで、画面の良さが格段に変わる、という良い例である。
新種恐竜はキューとミューと名付けられる。ミューのほうはさて置くとしよう。問題はキューのほう。体毛が黄色で、この色がのび太の普段の服の色にかなり寄せて描かれている。ノビサウルスはメスが赤毛、オスが緑から黄緑に描かれる。後にノビサウルスの群体と出会うが、キューほど黄色のカラーで描かれた個体はない。はっきりと「キュー=のび太」という構図で描かれている。
キューはノビサウルスが種として元から「本能」としてプリセットされた行動のほどんどができない。はっきりいえば出来損ないだ。ノビサウルスの基本アクションである「飛ぶ」ということもできないし、それ以前にごく普通に「食べる」ということもおぼつかない。生命力も行動力も弱い個体である。自然界での生存はまず不可能な個体だ。
映画の後半に入り、ノビサウルスは仲間達のコミュティと遭遇する。ノビサウルスとして普通に育ったミューはそのコミュニティの中に、当たり前に加わることができた。しかしキューは、おそらくボスらしき個体から仲間入りを拒絶される。なぜなのか?
これは野生動物だけではなく、人類の中でも起き得る話である。人類が石器文明による狩猟採取の生活を送っていた頃、技術の習熟の遅い子供、知力の弱い子供、愚鈍な子供は殺されていた。一方、狩りの能力を喪った老人も殺されていた。誰が子供を殺していたのか、というと子の親であり、老人を殺していたのはその子供たちであった。
なぜこんなことをするのか、というと切実に森で得られる食料に限りがあるからだ。森で得られる食料に限りがあり、その食料で生存できる人数も決まっているのだから、コミュニティ(部族)の中で体力の低い、技術が未熟、知能が遅れているという子供はまっさきに殺されていた。これが食料が限られていた時代の、過酷な掟であった。
(森の食料を採り尽くしてもダメだった。そういう意味でも、一つのコミュニティで生きていける人間の数には限りがあった。だから過剰に生まれてくる子供は殺されていた)
この考え方は、野生動物の世界でも当てはまる。周りの個体よりも明らかに劣っている――体格も小さく、能力も弱く、知能も劣っている……。そんな個体がいると周りの足を引っ張るばかりではなく、最悪コミュニティのカタストロフを引き起こす。どんな野生動物でも、生まれてきた子供の中に出来損ないがいると、親は見捨てていく。
出来損ないのキューは、出来損ないであるがゆえに、コミュニティを崩壊させるかも知れない。そこでノビサウルスのボスは、キューがコミュニティに加わることを拒否する。こういう判断を下して決行するのはボスの役割だ。
コミュニティから追放されたキュー。同じく、体が小さく、知能も劣っている愚鈍なのび太。のび太とキューのイメージが重なり合ってくる。
キューがなぜノビサウルス基本アクションである「飛ぶ」能力が劣っているのか……はクライマックスを見てわかるように、そもそもキューは「滑空」ではなく「羽ばたこう」としていたからだ。
ではなぜキューが「滑空」ではなく、「羽ばたこう」としていたのか。おそらくは、空中を飛ぶという恐怖に勝てず、何気なく、慌てて、手をパタパタさせていた。そこから偶然、手をパタパタさせ続けてれば、「飛び続ける」ことができると発見する。
滑空は高所から下方へ降りることしかできないが、羽ばたきを獲得すれば、下から上へ上昇することもできるし、さらに飛び続けることができる。
こうした変化は、「当たり前のように滑空」ができる個体からではなく、当たり前の滑空が“できなかった”個体から生まれるのではないか――これが本作の制作者が推測したところだろう。
ではなぜキューという、ノビサウルスの中でも愚鈍な個体がこれを成し得たのか。なぜキューとのび太を重ねて描いたのか。
それは世の中の「イノベーション」はいつも落ちこぼれとはぐれ者の中から生まれるからだ。
優秀な人間は常に、従来あるなかの最新系を目指す。優秀な人間ほど、知能や技術にプライドを持っているから、競争に捕らわれ、その中でより優れたものを作ろう……という発想に囚われる。最先端を標榜する家電メーカーの中から、イノベーションがなかなか生まれない、旧来の技術の最新版しか作られないのはそういう理由だ。
また、一般から意見を募り、それを反映して何かを作ろう、という……試みもよくない。なぜなら大多数の人は、「新しいもの」を夢想することがないからだ。大多数が欲しがるものは常に「より良いもの」である。
これが「ビッグデータ」が陥る罠である。ビッグデータは統計を取ることはできるが、そこからイノベーションは絶対に生まれない。生まれるわけがない。「これからはビッグデータを活用していく!」という大企業が平凡なものしか生み出せなくなっていくのは当然の帰結であろう。
とある人の話だが、馬車しかなかった時代に、多くの人に「どんな乗物が欲しい」と聞くと「より早い乗物」と答えるに決まっている、という。消費者は「選択」しかできないのだ。
作り手というのは「提唱者」にならなければならない。でも優秀な人間ほど、高学歴な人ほど、優秀さが邪魔をして新奇なものの提唱ができなくなる。
映画業界やゲーム業界を見てみよう。大予算をかけた映画やゲームほど、内容がありきたりだ。なぜなら、大予算をかけての失敗が許されないからだ。失敗が許されないから、安全なもの、安パイなもののスケールアップ版に終始してしまう。大予算のゲームが独創的な構想であったためしがない。確実に予算を回収しなければならない、というプレッシャーがかけられると、「確実に儲かるもの」の中のより豪華版になっていくのは仕方がない。
すると、大予算をかけた映画やゲームは、どうにも似たり寄ったりな内容になっていく。ゲームでいえば、低予算インディーズで作られたもののほうが圧倒的に個性的な作品が作られている。
しかし、優秀な学歴を持つ人間が、進んで低予算のインディーズを作りに行ったりすることはまずない。優秀な人間は、みんな大手メーカーに就職したがる。で、有名大作の一部になりたがる。インディーズなんてものは、大手メーカーにいけなかった人が作るものだ……というのがゲーム業界の人々の基本的価値観である。
(特に、日本では「起業する」というマインドよりも、「どこかに就職する」「企業に所属する」「大きなものに加わる」という意識が強すぎるがゆえに、インディーズゲームの流れがだいぶ遅れてしまった……という経緯がある)
大手メーカーに就職できなかった、学歴の世界で「優秀」という認定がもらえなかった……。そういう人達がインディーズで個性的で、時に業界の方向性を変えるようなゲームを生み出してしまう。
映画・ゲーム業界の話ばかりになってしまったが、そういう業界を変えるようなイノベーションは、ほとんど大手企業の中から生まれていない。イノベーションはガレージに集まった落ちこぼれたちの中から生まれる。大手企業の中から生まれるケースはあるのだが、大抵は小さな予算だけ与えられて「好きなように作っていいよ」と言われた時だ。「会社内独立愚連隊」だ。そういう「はぐれ者」の中から、常識を刷新するものが生まれる。
落ちこぼれ達が、世界を逆転させる。
映画の話に戻ろう。
平均的な能力を持って生まれた人は、能力を持って生まれたがゆえに、その能力の中で生きようとする。しかし平均以下の能力で生まれた者は、能力を持ち得ないゆえに、従来の世界にないものを作り出そうとする。『ドラえもん』の世界でいうと、イノベーションに行き当たるのは、いつものび太のような人間であるのだ。のび太でなければ、『のび太の日本誕生』の時のように、「合成魔獣を作ろう」なんて発想しなかったし、最終的にのび太は自分で作り出した合成魔獣に救われるという展開が作られている。自分で作り出したものに救われるのだ。
だがそのイノベーションに行き当たるには、安穏としていてはいけない。従来世界に対して、「戦ってやろう」という強烈な意思を持たねばならない。なにしろ周りよりも能力が低いわけだから。さらに生み出したもので従来世界、つまりコミュニティに認められなければならない。
キューは能力が低いゆえに、コミュニティのボスから排除されてしまった。ボスのこういう思考回路は、野生動物の世界や、狩猟採取の時代だけでなく、現代人でも意外とこういう発想を持ちやすい。のび太みたいな少年は、大きなコミュニティから排除されやすい。
こんなふうに、一回は自分を排除したコミュニティに対し、そのコミュニティの価値観を逆転させるようなもので、もう一度コミュニティ参加のチャンスを作らなければならない。そのためには、猛烈な努力もまた必要になってくる。
キューは映画の最終局面に入り、何度も手をパタパタさせて羽ばたこうとする。キューはどうやっても滑空ができない。もしかすると成長の過程で腕の発達が弱く、腕を広げたところで飛べなくなっていたのかも知れない。だから今その時にできること……つまり“手をパタパタさせるという方法で飛ぶ”ということをしなければならない。今これを達成せねば、のび太を救えない――!
キューは何度も失敗を繰り返し、最終的にこれを成功させ、これでのび太を救いに行く。これをクライマックスに置いているところが、本作のドラマ的な肝になっているところだ。
そしてこれがひょっとすると恐竜が「鳥」になった瞬間ではないか――という仮説を物語の中に置いている。この虚構的飛躍が、『ドラえもん』が本来持っていた「夢」の部分になっている。
さて、のび太達の介入は「歴史改変」ではないのか? なぜタイムパトロールはのび太達の歴史改変を見逃すのか?
『新・のび太の日本誕生』の感想文のところにも書いたが、のび太とドラえもんのやったことが、後の世界における「正史」だからではないのか?
そもそもの話、ドラえもんが過去に送られて、野比家の後の運命を変えてしまうこと自体が、歴史改変だ(なぜのび太なのか……というとどうやらのび太が時代の結節点にいるからのようだ)。それをタイムパトロールから見逃されている。なぜ見逃されているのか……というこれは、私が『ドラえもん』という作品に対してずっと考えている「推測」だが、後にドラえもんが生まれる切っ掛けそれ自体が、成長したのび太にあるからではないだろうか。ドラえもんやタイムマシーンのある未来世界は、「ドラえもんがやってきた」という過去改変があって起きたのではないか……。
今回の話に限らず、ドラえもんが方々でやらかしてきたことは、タイムパトロール達は全てにおいて見逃してきた。なぜここまで見逃されてきたのか……というと「見逃さなければならない理由」があったからじゃないのか。
6600万年前の時代にタイムパトロール達はいて、恐竜時代の末期がどうなっていくのか、観測していた。しかし恐竜時代がその後どうなったのか、あの時点のタイムパトロールは観測していなかったのではないか。だからタイムパトロールはあの時代に、べったり貼り付いて観測を続けていたのではないか。
タイムパトロールたちの観測では、あの隕石落下で確かに恐竜たちは絶滅していた。しかし後の時代には、隕石落下後の化石も発見されている……。この矛盾はどういうことなのか。
そこにのび太とドラえもんがやってきて、介入が始まった。のび太とドラえもんの介入によって、結果的に歴史が「正しく」なっていく。それがわかったから、あえて見逃した。
で、その見逃そうと提案するのがジルである。どうやら前半に登場してきた恐竜博士の子孫にあたる人物だ。先祖と同じく、「のび太を見守る」という役割を全うするのである。
後半展開のツッコミどころはそこ(タイムパトロールの傍観)じゃなくて、【飼育用ジオラマセット】上に作ったものが4000万年も残り続けたこと。滑り台やジャングルジムといったものは「鉄」。鉄は腐食して早々に劣化するものなので、50年も残らない。最終的に土に帰ってしまう。4000万年も残り続けるというのはあり得ない。
……ということも、重箱の隅がどうとかいうやつだけど。
私が『のび太の新恐竜』がドラえもん映画最高傑作だと思うのは、まず画の良さ。ちゃんと映画の画になっている。ドラえもん映画の引っ掛かりどころを、やっと解消した。
さらにはドラマの有り様。キューというのはのび太である。コミュニティの落ちこぼれである。その落ちこぼれという立場から脱して、最終的にイノベーションを引き起こす。そこをドラマの中心に置いている。
その一方、のび太は「逆上がり」というごくごく些細な達成を獲得して物語は終わる。のび太の物語はこれから。のび太はまだ小学生の少年。本当にイノベーションを引き起こし、ある種の「大逆転」を引き起こすのはこれから。だがキューという存在が、のび太のその後を示唆している。キューというキャラクターを通して、『ドラえもん』というドラマの全体像を示した。他の劇場映画では到達しなかったところである。だからこそ、私は本作をシリーズ最高傑作に置くことにした。
さらに本作では、「恐竜はこうやってカタストロフを生きのびたのではないか」という推測を、あくまでもファンタジーとして描く。リアルな3DCGで描かれた恐竜たちは考証に基づくもので、考証通りのアクションしかしない。そこで代入されたのが、アニメキャラクターとして作られたオリジナルの恐竜。ノビサウルスが羽ばたきを獲得して、「恐竜」から「鳥」へ、つまり「次世代」へと生きのびていく切っ掛けを作る。学術的にはミッシングリングの部分。でも大雑把な概要は、そうであっただろう。
こんなファンタジーが作れるのは、「アニメキャラクター」という虚構存在だからこそ。「アニメ」という虚構を考える上でも、本作を見る意義はあったと思う。
また本作は希代のストーリーテラー・藤子不二雄と真剣に向き合った作品だ。大長編シリーズの中でも屈指の名作、『のび太の恐竜』といかにすれば戦えるのか。最新の研究を反映させるだけでは充分ではない。『ドラえもん』という作品を分解し、本質がなんなのかを見出し、そのうえでテーマを濃密に描く、という方向に打ち出し、これが成功している。
『のび太の新恐竜』の良さは、藤子不二雄のイマジネーションに甘えなかったこと。藤子不二雄考案の秘密道具はほとんど使われず、オリジナルの秘密道具で挑戦した。これも「自分たち独自のドラえもんを作るんだ」という意思によるものだ。
トータルとして見ても、ようやく「新世代のドラえもん」としての輪郭線が見えてきた作品。声優交代から15作を積み重ねて、ようやく巨匠の背中が見えてきた。その到達点が見えてきた一作である。
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