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映画感想 モービウス

 マーベルのバットマン……ではない。でも、だいたいバットマン。

 『モービウス』はダニエル・エスピノーサ監督、ジャレッド・レト主演の2022年の映画だ。モービウス初登場は1971年の『アメイジング・スパイダーマン』において。当時はコミック倫理規定委員会というものがあったために、「吸血鬼」というキャラクターそのものが規制の対象だったのだが、『モービウス』の登場により緩和された。それでも「吸血鬼キャラ」は扱いが難しかったらしく、映像化の際には「血」ではなく「プラズマを吸う」という表現に変えられたりしていた。
 劇場版は遡ること1998年の映画『ブレイド』の敵役として登場が計画されたが、その当時は頓挫。それから時を経て2017年5月、ソニーはスパイダーマンを中心とするユニバース計画「スパイダー・バース」を発表。そのなかの一作として『モービウス』の企画が発表された。
 2018年、ダニエル・エスピノーサが監督に就任。スウェーデン出身の映画監督で、2010年『イージーマネー』がスウェーデンでヒット、その後ハリウッド進出し、『デンジャランス・ラン』『ライフ』を制作した。
 監督が決まり、すぐに撮影が開始されると思ったが、なぜか延期。ソニーが『ヴェノム』の反応を待っていたため……と言われる。撮影が開始されたのは2019年のロンドン。ところがその後、コロナパンデミックにより映画の制作が停止し、公開も延期。その後、何度も延期を繰り返し、やっと公開したのが2022年だった。
 公開後の評価は散々で、制作費およそ8300万ドルに対し、世界収入が1億6700万ドル。広告費などを加えるともちろん赤字。映画批評集積サイトRotten tomatoには285件の批評家のレビューがあり、肯定評価はわずか15%。ただし一般レビューは71%とまあそれなりに。Metacriticでは100点満点中35点。PostTrakでは肯定評価62%。とにかくどのレビューを見ても評価は低い。第43回ゴールデンラズベリー賞では、最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞にノミネートされ、最悪男優賞、最悪助演賞の2つを獲得した。あまりにもつまらない……ということで逆に話題になり、ネット上ではミーム化。興行的、批評的に大失敗だったために、続編の計画は現在のところ頓挫している。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 25年前――。
 ルシアンはとある病院へと連れて行かれる。そこはルシアンのような血液上の欠陥を抱える患者達が集められる病院だった。現時点で最高の医療が受けられる場所だったが、しかし治療法はまだ発見されていなかった。
 ルシアンが病室へ案内されると、となりのベッドにいる少年が話しかけてきた。
「やあマイロ」
 その少年はマイケル・モービウス。マイロと呼んだのは、そのベッドの人はずっとマイロだったから。その前も、その前もマイロだった。
 ルシアンとモービウスはすぐに仲良くなったが、しかしある時、ルシアンの病状が急に悪化する。ルシアンにつなげられた生命維持装置が不具合を起こしたのだ。誰か……モービウスが振り返るが、病室には自分たちしかいない。モービウスはとっさに機械を修理して、ルシアンを救ったのだった。
 そのことを後で知った医者は、モービウスには才能があると見抜き、ニューヨークの学校へ行かせることに。
 そんなできごとから25年後――。モービウスはノーベル賞を受賞するほどの血液研究の世界的権威となっていた。モービウスはコスタリカから吸血コウモリを捕獲し、その遺伝子を人間と合成する研究をしていた。この吸血コウモリは血をエサにできる地球上唯一の哺乳類で、唾液の中に特異な凝血成分を持っていた。それを人間の遺伝子と組み合わせることができれば、もしかしたら自分やルシアンを治療できるかも知れない……。
 しかしこの研究は人道的に問題ありだった。そこでモービウスはルシアンに相談する。国際的に禁止されている実験だが、国際水域であれば問題ない。その資金を出してくれ……。
 その研究がうまくいけば、自分たちの病は治るかも知れない……。ルシアンは資金を出すことを了解する。
 それからしばらくして、モービウスは船の中で実験を行い――成功させる。ただし人智を超えた力を獲得し、その力をコントロールできなくなる。船の中の傭兵達を意図せず虐殺してしまうのだった……。


 ここまでで前半30分。

 うん、確かにつまらないね……。では今回のテーマは、「なぜつまらないか?」。この映画に関するレビューをある程度読んだけど、こういう作品と接した時、みんな「どうやってこき下ろすか」という文学的表現にこだわってしまうので、肝心の「なぜ?」「どこが?」を深掘りしたものが出てこない。このブログはなんでも解説するのがコンセプトなので、つまらなくなった理由を掘り下げていくとしよう。

 まずシナリオ。実は『モービウス』のシナリオは問題がない。シナリオというか、物語の基本構造自体はよくできている。そこを見てみよう。

 まずとある病院で2人の少年が出会うところから始まる。マイケル・モービウスとルシアン(マイロ)だ。
 ルシアンはそのベッドにいた前の人も、その前の人もマイロという名前だったから、マイロと呼ばれることに。マイケル・モービウスは英語では「マイコー」という愛称で呼ばれる。マイコーとマイロ……呼び名が似ているのはもちろん意図的なもの。2人がコインの裏表のような関係性にあることが示されている。
(ちなみに成長後の声優は、中村悠一と杉田智和だ。ヒロインは小林ゆう。この関係がわかる人は、吹き替えで見た方が絶対に楽しめる)

 ある時、マイロにつなげられていた生命維持装置が不具合を起こす。モービウスはとっさに修理して彼の命を救う。そのことを後で知った医者は、「この子には特別な才能がある」と見抜き、ニューヨークの学校へ行かせることになる。
 これがマイコーとマイロが分かれる切っ掛けとなる。
 モービウスはそのまま才能を発揮し、ノーベル賞を受賞するほどになったのに対し、マイロはその後もみじめな病室暮らし。同じ年の健常者に見下され、時に暴力も受け、強烈なコンプレックスを持つことになる。才能を見いだされ、その才能を消費する仕事を得ることができた幸運なモービウスと、ひたすらに無力感に打ちのめされ続けたマイロ……これがスーパーパワーを獲得してしまった時に真反対の反応を示すようになる切っ掛けを作る。

 吸血コウモリと人間の遺伝子を合体させ、病を克服することができたが、しかしそれは理性の崩壊を引き換えだった……。モービウスは「実験は失敗した」と判断して、自分自身とともに研究を葬り去ろうとする。
 しかしマイロは「それでもいい! 僕にもやってくれ! こんな体、耐えられない!」と懇願する。モービウスが拒否したために2人の関係は決定的に崩壊する。

 マイロはモービウスに無断で自らの体に血清を打ち、スーパーパワーを獲得する。はじめて健常者の体を……いや健常者以上の肉体を獲得してしまったマイロ。次第に自分の欲求のコントロールもできなくなってしまう。

 そんな時に、殺人事件も起きる。FBIはモービウスが犯人だと思い込んで捜査をはじめるのだった……。

 ここまでのストーリーを見ると、面白そうでしょ。マイコーとマイロ、隣り合わせのベッドで育った少年だったのに、しかしある切っ掛けを元に、真反対の人生を歩むようになってしまう。同じ病を背負ったコインの裏表のような関係。それが呪われた治療法を発見した時に、真反対の意識を持つようになってしまう。
 さらに殺人事件が起きて、FBIはモービウスが犯人だと思い込んで捜査を始める。これによってモービウスの行動が制限されてしまう。世間的にも「容疑者」の扱いになり、自由に外に出歩けなくなる。
 一方、マイロは人生で初めて得た自由を謳歌し、謳歌しすぎて欲望がコントロールできず、次々に人を襲っては血を吸いまくるようになる。そのマイロの犯罪も、FBIはモービウスによるものだと勘違いし……。
 ここまでがこの映画の基本構造。それぞれの人物に葛藤があることが示されて、スーパーパワーが発見された時に真反対の反応を示すようになる……この心理的経緯がきちんと示されている。さらにFBIに目を付けられて、モービウスの行動が制限され、その制限の中で悪と戦わねばならなくなる……。
 この映画を前半1時間だけを切り出して見せれば、100人中100人が「すぐに続きを見せてくれ!」と言うはず。ストーリー上の構造がしっかりできているから、前半部分だけを見れば、普通に面白いんだ。問題なのが、この後。後半1時間で「あら? あらあらあら……」とボロボロ崩れていく。ではその綻びがどこにあったのか……それを見ていこう。

 最初のシーンだけど、この段階で「ちょっと待て」が実はある。ルシアンはいいところのお坊ちゃんなんだけど、そのことが明言されていない。服装を見ればわかるでしょ……と制作者は言うかも知れないけど、ほとんどの人はわからない。
 成長後、ルシアンはなんの仕事をしているのかまったく描写されない。しかしなぜかいい暮らしをしている。実は、もともとそういう家庭の生まれだったから。そもそもお金持ちだったから、あの治療を受けられていた。お金だけは何の苦労もせず、いくらでもあったから、モービウスの研究にも投資し続けることができた。でも作中で説明されないので、もともとの設定を知っていないとわかりづらい。
 ルシアンは人生で自分の力で得たものが何もない……というのが彼のコンプレックスの源泉。親がお金持ちだったから、病気を抱えていても不自由はしなかったけれども、それ自体もルシアンにとってコンプレックス……モービウスは才能が認められたけど、ルシアンはただお金持ちというだけだった……でもこれ、説明されないと絶対わからない。普通に映画を見ていてもわからない。ここがこの映画の最初の躓きポイント。

 次に「?」なのはこのシーン。
 場面カットだけじゃわからんよね。これは吸血コウモリの遺伝子を、マウスに移植する実験をやっていたのだが、マウスは痙攣して動かなくなってしまう。
 その後、ホリゾン研究所には血液に問題を抱える患者が多数いるのだが、そのうちの1人であるアナの容態がおかしくなる。モービウスと助手はアナの元に駆けつけ、対処するのだが、その直後、ふっと振り返ると死んだと思われていたマウスが、蘇生していた……「実験は成功していた!」という場面。
 実際の映画を見ると「???」となるシーン。というのも、アナがいる病室と、マウスの実験をやっていた研究室はまったく別の場所。別のシーンで研究室の入り口が描かれるのだが、その周辺には病室などまったく見当たらない。
 つまり、絶対に見えるはずのないものを、見てしまっている。それぞれの位置関係、どうなってるんだよ。「いや、そこからはマウスの様子は見えないだろ」とツッコミたくなる。
 この映画の問題点って、要するにこういうこと。距離感おかしくないか、そこからそれは見えないんじゃないか……。こういうところをご都合主義的にスルーしちゃっている。映画の最初の段階から綻びがちらちらとあるのだけど、後半へ行くほど、これが修復不能の問題に拡大してしまう。

 映画の後半戦。「追われる身」になってしまうモービウス。助手のバンクロフト博士とこっそりと会う。

 バスの中で他人のフリして会う……ところまでよかったのだけど、次のカットになると、喫茶店で普通にお喋りしている。オイオイ、お前さん追われる身だったんじゃないのか……。

 この後、モービウスはニセ札を製造している犯罪者のアジトをたまたま見つけて、そこを占拠し、自分の秘密基地にしてしまうが……ここ、意味あった?
 確かにモービウスは殺人の容疑をかけられているので、隠れて活動するための拠点が必要なのはわかるが、この場所で物語が展開することもなく、それどころかこの場所を舞台にしたシーンすらほとんどない。するとわざわざ犯罪者を追い払って……という展開そのものが必要だったのかどうか……。必要と言えば必要だが、この場所の意義をきちんと示せてない。

 FBI2人組も間抜けな人にしか見えない。FBIはモービウスが犯人だと思い込んで捜査を進めて、そのおかげでモービウスは身を隠しながら計画を実行しなければならない……。
 そこで緊迫感が出るのはいいけど、FBIがあまりにも「モービウス真犯人説」を信じ過ぎちゃっている。よくある作品では、実はFBIは真犯人が別だと気付いていて……FBIにも知性があるところを見せるのだけど、この作品では「モービウスが犯人に違いない!」と盲進し続ける。それがあまりにも間抜けに見えてしまう。普通に現場を調べれば、犯人は別だ、って気付くはずだろ。

 モービウスと助手バンクロフト博士のロマンス……しかし2人の感情的経緯がまったく示されていない。確かに最初から“いい関係”ではあったのだけど、映画の中でロマンスが発展させるシーンが特になく、このキスシーンはなんでそこで? 必要あった? と物語上の必然がまったくない。
 物語上の展開や必然があれば、普通にいいシーンになったはずだけど、そこに至る前後のシーンがないから、この場面が浮いて見えてしまう。

 マイロの主治医であるニコラスは、ニュース番組でモービウスが殺人容疑をかけられていることを知るが……。
 オイオイ、容疑者の名前と顔がニュース番組で出るわけないだろ。被疑者はあくまでも“容疑をかけられている人”であって、まだ“容疑が確定している人”ではない。それをあたかも“犯人”であるかのように報道すると、大問題になる。一般人を犯人扱いして報道した……ということになるから、大誤報に発展する恐れがある。日本のマスコミもクソだが、さすがにここまでやんない(過去に何度もやらかしたけど)。

 モービウスはニコラスから携帯電話で呼び出されて駆けつける。そこにいたのは、死に際のニコラスだった……。
 いや、待て。モービウスはどうやって、あの呻き声しか聞こえない電話だけでニコラスの居場所を突き止められた? ニコラスはなぜモービウスを呼んだ? モービウスを呼んでいる余裕があれば、まず救急車だろ。ニコラスはマイロの屋敷のなかで倒れていたのだが、モービウスはその中へいとも簡単に潜入できてしまうが、あれだけの豪邸ならば警備員がいるはずだろう。そういうプロセスをすっ飛ばしてこのシーンに行くから「あれ?」ってなる。
 距離感がおかしい。ご都合主義的にそのシーンがいきなり出てきてしまう……。この映画の問題がここにも出てきてしまう。

 ニコラスと別れると、今度はバンクロフト博士の呻き声が聞こえる……。
 なんで? その位置から聞こえるのはさすがにご都合主義的だろ。モービウスは空を飛んで駆けつけるのだが、空を飛べる能力、もっと制限を付けるべきじゃないだろうか……。そもそも「なんで飛べるんだ?」という話だし。
 距離感がおかしい。合理的な説明がない。この映画に何度も出てくる問題点。

 はじめて空を飛ぶシーンはここ。地下鉄に電車が入ってくる……この時の風の流れに乗って空を飛べる……という理屈だが……。
 いやいや、いくらモービウスがスーパーパワーを獲得したからといって、体重までは変わらないだろ。その体重で気流に乗れちゃった……ということにしちゃうと、ちょっとした風でも吹っ飛んでいってしまう。あと電車の前方に気流が出ているのもおかしい。気流は後方へ流れるはずだ。

 さあいよいよクライマックス。モービウスとルシアンの決闘。マイコーとマイロ。コインの裏表のような存在だったのに、スーパーパワーを発見してしまったためにおかしくなった2人の関係。その関係が収束していく場面――にするべきだったのだけど……。
 この戦いはあっけなく終わってしまう。モービウスがなんだかわからない“凄い必殺技”に目覚めて、マイロを瞬殺してしまう。
 いや、待て待て。ここはドラマを盛り上げる場面だろ。ドラマとバトルを両立させる場面だろ。なのに、なんの対話もなく、感情のぶつかり合いもなく、脈絡もなく目覚めてしまった“凄い必殺技”で容赦なく叩きのめしてしまう。情緒もへったくれもない。
 これじゃマイロがかわいそうじゃないか。マイロはずっと惨めな人生を歩んできて、やっと自由を獲得したけれど、自分で自分をコントロールできなくなってしまった……マイコー、僕を止めてくれ! その力で僕を殺してくれ! ……そういうお話しじゃなかったのか? このクライマックスじゃマイロの気持ちも収束できない。見ている観客の気持ちも収束できない。あれ? 今ので終わったの? ……という感じになる。

 要するに、この映画、ずっと距離感がおかしい。人物同士の距離感だけではなく、ドラマの距離感もおかしい。ドラマを展開するためには、そこに至るための経緯が絶対に必要だ。でもそういう物語をことごとくカットして、“見せ場”だけがポンと出てくる。
 ニセ札製造をしている犯罪者のアジトを壊滅させたり、バンクロフト博士とのロマンス、ニコラスの死、マイロとの戦い……。そのシーンだけがいきなりポンと出てきてしまう。見ていると「え? なんで?」となる。その前後のシーンがないし、それぞれのシーンに意味があるのかどうかもわからない。それぞれのシーンが次のシーンへの予備動作にすらなっていない。絵面だけは格好良く撮られているけど、そこに至る経緯が描かれていないから、その場面が浮いてしまって間抜けに見えてしまう。

 ではどこからおかしかったのか……最初からおかしい。冒頭のプロローグは回想シーンだからダイジェスト的に描かれてもそんなに気にならないけど、その後のシーンに入ってもなんだか場面だけがポンポンと流れていく。それでも物語の基本構造がしっかりしているから、前半1時間まではそこそこ面白く見られる。しかし“負債”はどんどん溜まっていく。後半に向けて、収束させなくちゃいけないプロットが溜まっていっているんだけど、全部投げっぱなし。クライマックスっぽい画面だけがさーっと流れて終わりだった。

 では、どうしてこうなったのか?
 私の推測では……1時間50分という尺。他のソニー発のアメコミ映画を見ても、だいたい1時間40分から50分くらいの尺に収められている。『スパイダーマン』だけが2時間越え。多分……映画会社から「1時間50分前後」というお達しを受けているんじゃないかな。
 上映時間を指定されると、そこに無理が生じてしまう。1時間50分程度に収まるストーリーにするか、無理矢理詰め込むか、そのどちらかになる。『モービウス』は無理矢理やっちゃったほう。この物語を後半50分でまとめられるか……というと、それは誰でも無理。無茶。その無茶をやっちゃったから、かっこいい絵面だけがただ並んでいるだけの薄っぺらい映画になっちゃった。
(『ヴェノム』でもこの問題はあった。伏線を回収しないで投げっぱなし。1時間半に収めるために、切ったんだろうな……)
 もしかしたら……シナリオの段階では、それなりにできていたんじゃないかな? しかし編集の都合上、ザクザク切って、無理矢理つなげた結果、こんな映画になったんじゃないだろうか(例えば前半のマウス実験の場面、本来は違う展開であのやりとりがあったんじゃないか? 編集で間のプロセスを切っちゃったから、変なやりとりに見えてしまったのでは…)。もしそうなら、ぜひとも「長尺完全版」を見てみたいが……。しかし興行的に惨敗したこの作品の「完全版」が世に出る可能性はまずないのが惜しい。

 あとエフェクトの問題だね。
 スーパーパワーを使う時、こういうエフェクトが出てくるんだけど、これが「配信殺し」だった。このシーンなら問題ないけど、だんだんこのエフェクトが画面全体になっていく。すると画面がノイズだらけ。画面全体がもにゃもにゃとなって、何が起きているのかわからなくなる。流れがあるからなんとなくでわかるけども……。
 たぶん、Blu-rayなどで見る分には問題ないだろう。しかし配信で見るとかなり厳しかった。

 この作品のいいところ、といえばこの女優さんだね。すごい美人。こんな美人を見られただけでも収獲。こんな美人にゴールデンラズベリー最低女優賞なんかあげちゃかわいそうだよ。この女優が悪いんじゃなくて、作品が悪い。ジャレッド・レトもいい芝居してたよ。でも映画が駄目というか、物語的な脈絡がわからなくなってしまっているから、すべて間抜けに見えてしまう。いい芝居していたはずなのに、身振りだけが大袈裟な「パントマイム芸」みたいに見えてしまう。関わった人たちみんなかわいそうに見えてくる。
 たぶんこの映画、ある地点まではうまくいっていたんだと思うけど、最終的に物語前後の細かな枝葉を切り過ぎちゃった結果、なんだかわからない映画になっちゃったんじゃないかな……。

 映画会社はこの作品『モービウス』を起点にして、「スパイダー・ユニバース」を展開するつもりだった。ソニーはスパイダーマンの権利だけを持っているのだけど、そのスパイダーマンだけでもキャラクターは多数。ヴェノムやモービウスといったキャラクターを立てて、最後には『アベンジャーズ』のように集結する計画を立てていた。
 しかしその計画はまったくうまくいっていない。『モービウス』もこの一作で躓き、続編の計画も暗礁に乗り上げたまま。これはクオリティコントロールできていない会社側が悪い。たぶんこの映画、追加撮影なしで、編集だけでクオリティアップ可能だよ。「とりあえず世に出して収益を上げよう」ではなく、まず「クオリティを上げよう」ということに重点を置くべき。収益を上げたいから、上映時間は1時間50分以内! ……とか、そんな制約作っちゃ駄目。どんな作品も、まず「面白いこと」が絶対条件なんだから。
 そういう、クオリティについて理解できている人間が映画会社の幹部クラスにいない……ということが問題(DCも明らかにそこをわかっている人がいなかった)。作品そのものを理解できている人がいないから、せっかくの作品が駄目になる。作品が駄目になるとシリーズ展開も駄目になる。たまにヒット作が出ても、それは実力ではなく「運」でしかなくなる。
 そういう意味で、『モービウス』も犠牲になっちゃったな……。物語の基本構造を見ると、実は面白い作品。面白くなる切っ掛けは一杯あったのに、グチャグチャな状態で世に出ちゃった。「マイロの悲劇」がぜんぜん表現できていない。いや、マイロ以上に、この作品そのものが一番の被害者。
 会社側がこういう体制だと、今後もいい作品が出ることはない。自分たちは商売の前に、物作りをやっている……そういう意識を改めて持ってほしいものだ。


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