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読書感想文 世界の半分を怒らせる/押井守

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 たとえバカ話や冗談だったとしても、他人の知的生産物には敬意を払うべきです。精神的肉体的営為に報いるに対価を支払うというのは、啓蒙的近代世界の基本ルールでもあります。

 世間でどう思われているか知らないが、映画監督に人格者なる者はいない。いや、話をクリエイター全体に向けても、真っ当な人間などはほぼ存在しない(任天堂の岩田聡社長のような優れた能力を持ちつつ人格者だったのは例外中の例外)。押井守監督は名前を伏せているが……小金井の巨匠や、ハゲのロボット監督や、何かと鬱になるロボット監督や……だいたいがロクでもない人間だ。作品の面白さと本人のクズ度は相関関係があるといってもよろしい。
 クリエイターはロクでなしで結構。ロクでなしでまともな方法で自身を社会化させることができないから、彼らは表現者となる。社会参加を模索した結果、ロクでなし共は何かをクリエイトすることを見つけ出す。で、真っ当な人間たちが、それを消費する。お互いにとって理想的な利潤関係を見出すことで、私たちの社会はうまく成り立っている。
 しかしこのロクでなしクリエイターたちは世間一般的にロクでなしとは思われていない。それどころか、結構な人格者だと思われている節もある。あの巨匠とか、あの巨匠とか、あの巨匠とか……誰のこととは言わないけど。
 クリエイターたちは時々、自身の顔を出す。雑誌インタビューやラジオやテレビ番組や……。そういった場面では様々なフィルターがかかる。放送コードだったり、政治的配慮だったり……。要するに、ああいった場に出てくるのはただの営業トークだ。
 さて、クリエイターからフィルターやらを外してしまうとどうなるか……。それが本書の内容、『世界の半分を怒らせる』。フィルターも掛けていなければ希釈すらしていない。そんなものがうっかり世に出てしまったら、どうなるのか。世の中大騒ぎ必至だ。だから基本的にはクローズド。しかしだからこそ真実なるものが含まれる。そういうものだから自己責任で見ろよ、という場所になっている。

エヴァンゲリオンの話。

 ひと言で言うと『エヴァ』という作品は、まるで明治期の自然主義文学の如き私小説的内実を、メタフィクションから脱構築まで、何でもありの形式で成立させた奇怪な複合物であります。
46~47ページ

 物語もセリフもすべてどっかで見てきたもののコピーで、作品もキャラクターもパンツ下ろしっぱなし。庵野という人物の内的テーマ、モチーフが作品の中にはなく、ディテールだけですべてが成立しちゃっている。『エヴァ』が今でも作品として成立しているのは、『エヴァ』という枠があるから。この枠があるからついてくる人々がいる。その枠しかなく、「物語」がないから延々終わらない物語になる。

 ……と、これでネット上で炎上したらしい。よくよく読めば、別に作品を貶めたわけでもない。語っただけだ。が、「僕の好きなものにケチをつけた」と思い込んだ人々が「僕を裏切ったなカヲル君!」と言わんばかりに怒って炎上を起こしたのだとか。といっても、怒った人々というのはそもそも押井守コラムを読んだわけでもなく、どこかで一部を切り取った――“悪意を持って切り取った”――記事を読んで怒ったんだとか。
 多分、押井守コラムの収益にはダメージはなかったんでしょう。外野が喚いただけだし、実際のものを読んだら特に怒る必要もないというか。それ以前に、「それくらい見抜け」という話だ。

 押井守のエヴァ話というのは現代アニメ界隈の現状を指摘しているなぁ……と私は感じた。だいたいどのアニメを見ても何かのコピーで、作品の枠に合わせて合成しているだけ。それはキャラクターだけでなく、キャラ絵についてもね。これに、何のモチーフを放り込めるか……。今、アニメは表現においても末期に差し掛かっているから、もうそこにしか頭をひねる余地のない状況に来てしまっている。
 で、キャラクター造形に関してはパンツ下ろしっぱなし。今どきのアニメ、漫画作家は最初からパンツ履いてないし、それどころか×××した×××××から何か出しちゃってる(全年齢なので書けない)。だいたい今のアニメのテーマなんてどれも”性のコンプレクス”ですし。
 でも私みたいな者も、この傾向に対して正面から批判もできない。だってわかるもの。結局はかわいい女の子と××××したいだけだって(全年齢だから書けません)。私だってそりゃそうです。みんなそうです。こういう“共犯関係”で今のだいたいのアニメは成立している。そうでなきゃあんなにエロ同人が生産され、あんなに売れるわけがない。
 軽音? 登山? キャンプ? 釣り? 自転車? 戦車? そんなものに対して本気になっている奴がどれだけいるよ。ああいうのは全部メインテーマに対するオカズ。“女の子だけじゃない”ということに対する言い訳だ。
 だから今のアニメは物語を完結させられなくなった。だってテーマとモチーフがないから。終わりが付けられない(テレビシリーズは1クールという枠があるから終わるけど)。ストーリーが終わっても、また別の作品でキャラクターを差し替えて、繰り返しが作られるだけ。……おお、『ビューティフルドリーマー』の世界!

 アニメ、漫画を永遠に終わらない文化にするため、この現状を放置するべきか、それともどこかで誰かに引導を渡してくれるのを待つべきか……。
 その引導というべきものは、旧エヴァ劇場版でセルの裏側を見せたり、映画館に集まるオタクを鏡のごとく映してみせたり、すでにあの作品の中でありとあらゆる手法を尽くしてやったけども。結局、アニメコミュニティはビクともしなかった。
 永遠に夢を見る。永遠の夢を。それが幸せなのかもしれない。

 本書から外れる話だが、今は「わかりやすさ」が求められる時代だ。140字のツイートで全てを理解できること。これが全てとなっている。で、今の世の中、「雑感」が異様な数で溢れている。このブログなんてまさに「雑感ブログ」そのものだけども。もはや「作品」と「雑感」どっちが多いんだ、という世界だ。
 理由の一つが、情報の速度と量。情報の量があまりにも多いから、より早く、より短い情報で伝わることが求められている。
 もう一つが、より多くの「いいね」を集めることが絶対価値をなっている。この傾向は企業だけでなく、個人の価値意識にも結び付いている。よりネット社会でバズること。これが企業にとって利益を得るための手段となっているし、もはや個人も同じく。個人がこの価値観を理解しているから、その情報に対して「好感が持てるかどうか」自分たちがジャッジできる立場にあると思い込むようになっている。
 企業も個人もその瞬間にしか価値がなくなってくる。この傾向は、今後どんどん加速していくだろう。
 その一方で、情報の奥行にあるものがどんどん失われていく。体験なき表層だけ。何もかもが目の端を通り過ぎていく風景となる。そのうち「わかりやすさ」の奥に何があるのか考えられなくなり、本当の価値のあるものを理解する頭がなくなる。スマートフォンがあれば何でも理解できる、と現代人は思い込みがちだが、その実体はただただ受け身の態度でいるだけで、人間の能力を衰退させる原因になっている。
 1万2000年前に農耕社会ができあがって、むしろ人間の脳が縮小した時のように。「いいね」を追い求めて小さな雑感をつづるだけならやめてしまえとは思うのだけど、しかし現代人は「透明な身体」しか持っていないからやめられない。やめてしまえば「私」という自我・自己意識を失ってしまう。現代人はどうにも業が深い。

 と、面倒くさい話ばかり書いてしまったので、最後にちょっと楽しい(?)話でも。
 押井守は『イノセンス』でカンヌ映画祭に招待された。映画祭なんてものはどこの社会に行っても「権威」と「政治性」の産物だ。純粋に作品主義のものと思うのは、それこそ人間が純粋。その権威を守るため、自分たちが見出した作家はそこでちやほやするし、時にはちょっと意外と思える作品に声をかけるのも権威を守るため。
 「アジア映画」や「アニメ」なんてものが招待されるのも、この理由。「どうだオレたちにも寛容なところがあるだろ」とこれを見せるため。カンヌの連中はハナから『イノセンス』とかいう極東の辺境国で作られた作品に賞など与えるつもりはない。
 そんなことは押井守も理解している。
 でもお呼ばれしたのだから、こちらはこちらで状況を利用しない手はない。押井守はその時、娘を連れてレッドカーペットを歩こう、と意気込んでいた。
 娘を? と思われるかもしれないが、家族や友人や愛犬を連れて、というのはよくある光景だ。
 ところが、肝心の映画祭がさっぱり始まらない。いつまで待っても始まらない。車の中で待機。どこぞの押井守映画のように終わらない待機の状態がえんえん続く。
 映画祭が始まらないのは、ウォン・カーウェイが大遅刻したためだ。なんでも、まだ映画が完成しておらず、当日もまだ編集作業をしていたとか……それで遅刻。
 映画祭なんてものは権威の産物だから、自分たちが発掘した映画作家は徹底的にちやほやして甘やかす。ウォン・カーウェイはまさにカンヌが発掘した映画作家。だからウォン・カーウェイに合わせて、映画祭自体の開催をそのぶん遅らせたのだ。
 ようやく始まったと思ったら、スケジュールの変更でオープニングセレモニーはなし。押井守は娘とレッドカーペットを歩けなかった。
 一生に一度しかない娘孝行のチャンスをよくも……。ウォン・カーウェイいつかコロしてやる……。
 こうしてウォン・カーウェイは会ったこともなければもしかしたら名前すらしらない極東の映画監督に恨まれるのであった。

 とこんなふうに、押井守がその時思ったこと、気の向いたことを思いつくままに書き、書き散らしたものがこの本だ。しかしロクにフィルターもかかっていないから、基本的なクローズドの場でのみ語られたものだ。
 内容は意外に多方面へと広がっていて、アニメや映画をはじめとして、野球、サッカー、軍事、政治、食料問題……と幅広い。特にサッカーの話題は多い。私はサッカーに興味がなかったんで、いまいち面白くなかったのだが。
 なるほど、この人はこういうことを考えていたのか。こういう考え方もあるのか。といろいろ知るチャンスのある本だった。文体もノリが軽いので読みやすい。もちろん、お金を払って読むべきだ。


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とらつぐみ
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