社長|娘に贈るラブレター4通目
キミはまったく、なっておらん!
ワタシの考えていることの三歩先を読んで仕事をできないようでは、ワタシの右腕はつとまらんぞ。
今度同じ失敗をしたら・・・、わかっているだろうね?
◇
6年前、我が家にはワンマン社長がいた。
社長の感情は起伏が激しく、笑っていたかと思えば、急に怒りだしたり、泣いたりと忙しい。イライラしていると机をバンバン叩く。お腹が空いてくる時間帯には特に細心の注意が必要だ。
社員である私の業務内容は、社長の日々のスケジュールを管理する「秘書」から「カバン持ち」&「広報」、食事時には「社食のおばちゃん」に、またある時には身を呈して社長を守る「ボディガード」まで…多岐にわたる。
会社の拘束力はハンパなく、24時間365日出勤。
入浴はおろか、下手したら数十秒で事足りるトイレにすら、落ち着いて入ることはままならない。社員が過労や病気でダウンした場合にのみ、運がよければ交代要員が補充される。しかし、運悪く交代要員が補充されない場合は、床を這いながらなんとか根性という二文字で乗り切る…。
そう、ここはブラック企業だ。
社内では激しく気分屋の社長だが、一歩外に出れば、そんな空気をおくびにも出さずに外用の顔に着替え、営業用の眩しいスマイルをちらつかせている。おもにご年配の方々からの支持がアツい。
「こんなに穏やかな社長さんなら、社員さんもさぞかしお仕事しやすいでしょう。」そんな声が聞こえてくるようだ。
いや、おばあちゃん。そんなことは…、断固としてないです。
聞こえていなかったら困るので、再度言おう。
断固として、ない。
これは社長の外用の顔だ。みんな内情を知らないだけだ…。
それでも社員は社長の忠犬よろしく、せっせと働く。
自分が望んで入った会社、憧れの社長のもとで働けるんだから「私は幸せなんだ」と呪文のように自分に言い聞かせる。
でも時々、そんな社員も煮詰まって「こんなブラック企業辞めてやる!」と毒づきたくなることがある。そうだ、上司に恵まれなかったら『オー人事』に電話である。
だけど、そんなときに限って社長の笑顔が脳裏に浮かぶ…。モヤモヤすることはいっぱいあるけれど、この笑顔を見てしまうと、社長のことがキライになれないのだ…。
***
6年半前、初めての育児にあたふたしながら日々を過ごしていた。
我が家のワンマン社長とは、娘のこと。
生後1カ月を過ぎた頃から噂の”背中スイッチ”が発動し、1時間以上かかって抱っこ&ユラユラで苦労して寝かしつけたのに、布団にそ~っと置こうとした瞬間、ふりだしに戻るみたいなことをエンドレスでやっていた。毎晩、ラッコのように娘を胸に貼り付けたまま、布団に体を横たえることが叶わない期間が2カ月以上続いた。私の夜の生息地は専らリビングのソファーだった。
―乳児のうつぶせ寝は窒息や乳児突然死症候群のリスクも高まるので推奨しない―
そんなのは、百も承知だ。これでも一応、医療従事者の端くれだったし、リスクは重々理解しているつもりである。
でも、でも…だ。どうやっても、こうやっても仰向けにしたら、起きてしまう。おひなまき、布団におろした後もしばらく胸が離れないように覆いかぶさるような体勢でいる、腕枕など、一般的に背中スイッチに有効と言われる大概の方法は尽くした。が、やはり起きてしまう…。
なぜだ…。
育児書には「赤ちゃんが眠ったら、そっと仰向けにしましょう」の簡単な一言で片づけられているけれど、仰向けにすると起きてしまうから、こっちは困ってるんだ。
どうやったら仰向けで寝てくれるのか、誰かマジで教えてください。なんなら代わりに寝かしつけてください。
何度そう思ったことだろう…。結局、「推奨しない」と明言されているうつぶせ寝でしか、娘はほとんど寝なかった。
だから胸にうつ伏せの娘をラッコのように貼り付けた状態で、狭いソファーのひじ掛けを枕代わりにして横になり、夜中に何度も「息、してるよね…。あ、してた。」みたいに確認してはホッとして、自分も睡魔に勝てずにうつらうつらする…という生活をしていた。全然寝た気がしない。体中が痛かった。
朝、別室でしっかり睡眠をとってさわやかに出勤していく社員2号(夫)を恨めしく思ったことも一度や二度ではない。寝不足と疲れとホルモンの乱れはヒトの心を蝕む。不毛な敵意を生む…。
そんなことは露程も知らぬ社員2号が出勤すれば、社長(娘)と社員1号(私)の一日がスタートする。
社員1号はひたすらに、言葉を話さぬ社長の声や表情、体の様子に全神経を集中し、「これはおむつか?」「ミルク?」「あぁ、眠くて怒ってるんだねぇ。」といった具合に、社長の欲求察知センサーを磨いていく。
欲求をうまく察知できて彼女の望むケアができたときには、言葉は話さないが「そう、これこれ!わかってるぅ~」とばかりに至福の笑みで返してくれる社長。そうそう、一瞬でもこの顔が見たいがために頑張っているようなものだ。
が、こちらが彼女の欲求を読み間違えたり、彼女の望むタイミングからズレてしまったりしたときには、顔を真っ赤にして泣き叫び「違~う!ばかも~ん!」と責められているようで、だんだんこっちまで悲しくなってくる。
***
冒頭のくだりに戻る。
あの頃の私は、娘のことをひそかに「社長」と呼んでいた。
私の脳内では完全に、ブラック企業のワンマン社長と社員1号(&時々登場する社員2号)の設定で妄想が展開されていた。
娘はかわいいし、愛している。その気持ちに嘘はない。(と思う)
だけど、そんな自虐的な妄想でもしないと、正直やっていられない時期があった。
望んでやっと授かった娘なのに、
「辛いなんて感じるのは、お前の母性が足りないからじゃないか?」
「望めば誰でも親になれる訳じゃないのに、望みが叶った途端に辛いとか弱音を吐くなんて身勝手だ…。」
「母親ならみんな通る道だ」
などと、自分の中にいる”正論な私”がごちゃごちゃとまくし立てる。
同時に、
「そんなこと言ったって、24時間気の張りつめっぱなしで疲れた。お願いだから寝かせてくれ。」
「母親だろうがなんだろうが、辛いものは辛い。」
と、”正直な私”も必死に叫んでいる。
どこまで行っても交わりを見せない闘い、両者の攻防は続く。
そんな日々の中で、母としての経験も覚悟も半人前な私には【母親】よりも【社員1号】という妄想上の設定の方が気持ちが楽だったし、初めての育児にテンパりまくっている自分に対し少しだけ冷静になることができた。
「社員1号、果たして今日は何分で社長を夢の国にいざなうことができるでしょうか??新記録への挑戦です!」
「社員1号、今日のミルク提供のタイミングは絶妙でしたね~。社長もご満悦のこの微笑み!ナイスアシストであります。」
などと、自分の状況を他人事のように半ばバカっぽく実況することで、睡眠不足と疲労で思考回路が壊れかけ、母性神話の泥沼に吸い込まれて行きそうな自分をかろうじて岸辺に引き留めることができたようにも思う。
***
あれから6年以上の月日が流れ、娘は小1になった。
最近はませた口を利くことが多く、「手伝おうか?」の声かけにも「いいの!自分でやるからあっち行ってて!」なんて親を突き放すことも増えた。
だけど、夜寝る時間になるとトロンとした目で
「ねぇ、(背中を)トントンして」「ギューして」などと言って甘えてくる。その姿は6年前の”子ラッコ”だった姿と、さして変わりはない。
ちなみに、娘はなぜか夫に対してはこのように要求することはない。トントンとギューのリクエストは私にのみ発せられる。
口では「もう小学生なんだし、そろそろ一人で寝られるようになってほしいなぁ…」なんてボヤキながらも、私は今日も娘をギューギューする。ひそかにニヤつきながら。
私はこれを【昔、社長のもとで献身的に働いた社員1号へのボーナス】だと勝手に解釈している。
【おまけ】
社員1号(私)の中で、抜群の社長感を誇っている娘の一枚。
見切れてしまっているのが残念だが、右手には扇子を持っている。
社長感、ハンパない。
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