宇宙少女の歴史 1
新しく知り合った人たちから、私の人生について知りたいと言われることがよくある。
まぁ、直接の知り合いでもない人たち(このブログを読む人たち)が、どれほど他人である私に興味あるのかは分からないけれど、日本で産まれて育ったにも関わらず、日本社会とは全く別の宇宙に生き続けて(苦笑)、そのままヨーロッパ発信で、世界を旅しては歌を歌うという職業をしているなんて、ちょっと珍しいと言えば、珍しいだろう。なので、シリーズにして書いてみようと思う。
宇宙人という自覚
私は、日本の、ごく普通の家庭に降り立った。
ところが、2,3歳くらいの時、この世のシステム(社会的システムやルール、信号・お金・仕事など)に疑問を持った。そもそも、地球が球体であるという事をどう理解すべきかが分からず、私はこの惑星(地球)は、私の居るべきところではないと思った。それから、空を見て、本当の家族が雲の上から迎えに来るのを待った。
私には、珍しいセンスがあった。トランプをすればジョーカーがどこにあるかわかったし、サイコロは振る前に数字が分かった。簡単に言えば、透視と予知だろうか。
ある時、私以外の人に問題があると、私は夕方ベランダに出て祈った。すると、いつも翌日には解決したので、これは効力があるのだと知り、それで、私は毎夕方、ベランダでお祈りすることにした。
「私の幸せは自分でなんとかしますから、世界が平和でありますように、地球(自然)が守られますように」
これを毎日唱えた(ので、今でも覚えている)。
それで、私は、自分の特殊能力を自分に使わず、他人の為にしか使ってはいけないと思い込み、透視も予知も“しない努力”をした。
※今でも、「他人のためだけに使う」は守っている。
幼児の同僚
空を見るだけの毎日。母は、「おとなしいから家に居させても楽だ」と思ったらしく、幼稚園に行かせなかったが、5歳の秋に、このままだとこの子には友達が居ないままだ!という事に気づき、幼稚園に途中入園させた(今思えば母が相当変わっている!笑)。前に一度、面接に来たので、私は自分の教室を覚えていた。だから10月の登園初日には、母に幼稚園の門で、「見送りはここまでで良い」と言ったのを覚えている。
そして初日、ショックだったのを覚えている。
他の同クラスの皆さんが、やたらに幼稚だった。そして特に、絵が、簡易だった。
性根の良い人たちばかりで、私は皆さんの事が好きだったが、しかしとにかく、やたらと子供っぽい。
そして、先生たちが、やたらとエゴをむき出しにして園児を扱う。特に、私が年長になった時、理事長の嫁の年配の女性が私のクラスの先生だったが、彼女のエゴ満載のクラス運営に、私は「先生というのも所詮、人間でしかない」と思ったのをハッキリと覚えている。
これを今になって、他の友人に話しても、幼児期に同じ考えを持っていた人は結構居る。
そして参ったのは、PTA会長の娘が、お遊戯の主役から、合唱の指揮から、ピアノまで全部やる。
が、彼女のピアノのレベルは低く、コードⅠ(ドミソ)しか知らなかった。
卒園式には、
♪いーつの ことーだかー 思い出してごーらんー
をドミソだけで最後まで歌わされるのだ。これは、もう私の絶対音感の耳にはたまらなく辛かった。
私は、母に家で苦情を言った。母は、PTA会長の娘だから、他に方法はないんだと教えてくれ、私は、幼稚園卒園前に、社会に所属することへの難しさを痛感した。
そんなだから、そこから、義務教育を終えるまで、本人が辛いというだけでなく、大人にも全然可愛がられないという人生が続いた。
教育
話はちょっと逸れるが、これで分かったことがある。
きっと子供にはいくつかのタイプがある。が、ここで注目するのは、この2つのタイプ:
① 自我の目覚めがなく、「子供」として幼少期を過ごす
② 私と同じ様に、子供扱い(簡単な事しかやらせてもらえない事)に物足りなさを感じて暮らす
私は、ドイツのバレエ学校で子供にクラスを教えているが、他の講師のクラスを見て、遊んでるだけじゃないか…と思うことが結構ある。しかし、これは、その講師自身の子供時代が①だったんだと、今は理解できる。(彼らには子供は習うより遊ぶという経験が大切と思っているということ)
つまり、②のタイプの子供は、私のクラスに来て、どんどん難しい事を習えばいいし、①のタイプの子は遊びのクラスに行けばよいので、これはこれで、バリエーションがあるのは、子供に選ぶ余地があって良いと思う。
ただ、難しいのは、親が、わが子に①を望むが、子供自身は②のタイプ。
そういう親には、私はハッキリと、私のクラスを辞めるように言う(他の先生のクラスに行くことを勧める。)これは、その子が可哀そうというだけではなく、他の②のタイプの、じゃんじゃん学びたい子たちにも可哀そうだからだ。(実際、子供から他の子供に苦情が出る)
子供は、大人が思い描く子供とは実はちょっと違うのだ。
習い事
私は2歳でピアノを始めた。さすがにこの歳でピアノは、手が軽すぎて音が鳴らなかったので、鍵盤と言った方が正確だ。経緯は、2歳年上の姉を、母がピアノに連れて行ったが、姉には根気がなく、私の方が向いているだろうとスカウトされた。
幼稚園でも、小学校でも、身体が弱く、運動が出来ず(鈍かった)、それでほぼ友達と遊びたくなかった私は、毎日、窓から雲を数時間眺めて、時計の分針の動きを間近で観察して、そして作曲する。あとは、唯一の友達であるぬいぐるみたち(30体近くいた)の世話が忙しく、それプラス、公園に架空の動物を飼っていた。割と忙しかった(笑)
年長の時に、テレビでバトントワリングを見て、母に「これをやりたい!」と言ったら、日本舞踊の先生のところに連れていかれ、そこから数年、着物を着て、車でお師匠さんの自宅へ通い、日舞を習った。(母が相当変わっている!笑)
理数系少女
父がマシンエンジニアだった。姉が算数がすこぶる苦手で、夏休みには、父による姉への特訓があった。私は、姉を護るつもりで、父による2年上の算数の授業に参加した。
私にとっては、音楽と算数は同じだった。音も数字も、自然であり、空中で踊っている(動いている)。
この経験で、中学になっても、公式を使わずに、答えを出す事をいつも考えたので、高校は迷いなく理数科に行った。
この、公式を使わないというのは、社会のシステム(ルール)を疑問を持たず受け入れることはしないのと同じことだ。
公式とは違うが、例えば、小学校で、分数の割り算を習う時、「後ろにある数字の分母と分子をひっくり返してかけましょう」と習った。
さて、どういう理由でひっくり返すのだ??私は、これを同級生に上手く説明する方法を頼まれてもいないのに(苦笑)探して見つけ出した。それによって、宇宙(自然)の真理が分かるからだ。
そして、それを見つければ、自分の星に還れると思っていた・・・