超個人的な「東洋・日本人論」
欧米ナイズの中身とコンプレックス
あなたは、ふと疑問に思ったことがありませんか?
あの人たち(西欧人)と、われわれ東洋人(日本人)との違いを。
TVなどマスメディアは両者のそれはグッと親近感が増して、距離が縮んだかのように描いてますし、「差別」だか何だか知りませんが、もう、人種のみならず、男女間の垣根すら希薄になりつつあるご時世ですから…。
(ここにきてようやく、そのフワフワした「平準化」自体を疑問視する声も出てきましたが)
しかし、実際は、それはどーにもこーにも違い過ぎる。
両者の間にあまりにも深い河が流れている。
なぜなんだ?
について書いてみます。
どう違うのか?
といって、あらためて問うまでもなく、
あまりに違い過ぎる。
まず骨格。
似て非なるもんですね。
最近では、プロ野球界に突出した大谷 翔平選手など、「日本人離れ」した体格が話題になりましたが、それはごく稀なケースであって、大方の日本人は欧米に比べて貧弱な体格を「マイナーイメージ(劣等感)」をもって捕らえているのではないでしょうか?
薄い胸板、あまり長からぬ脚、どちらかと言えば扁平な貌、言ってみれば洋服が似合わない容姿。
ジーパンにTシャツスタイルは、露骨にそれが表れる。
そんな日本人的コンプレックスも、この二三十年間でずいぶんと様変わりしてきたようで、先ほどの野球界はじめスポーツ界などを見ると、欧米の選手のそれと互角か、それを上回る体型の方も多くなった。
身長も日本人男性の平均はフランス人のそれを上回ると聞きました。
アメリカナイズされたというか、ヨーロッパナイズされたというか、そういうことである。
お国柄をしのばせる民族衣装で
「戦後」という言葉も陳腐化されるほど、私たちの教育からライフスタイルの微に入り細を穿つすべてが欧米を目標にしてきたわけですが、ここにきてようやく「果たしてそれでいいのか? よかったのか?」という声も目立つようになってきました。
「悪い」のである。
いいわけがないのである。
何が「悪い」のかというに、もちろん欧米が悪いのではない。
欧米の価値観を「義務教育」という形で、まだ年端も行かない子供時代からたたきつけてきた、もっと言えば誘導してきた勢力が悪いのである。
(それは、アフリカの未開部族に、物資という飴玉と一緒に無理くりキリスト教を植え付けたことと等しい。これ、もー「陰謀」とかじゃないのはお分かりですよね? 説明不要です。めんどくさいし、疲れましたんで😝)
素朴な疑問から言うと、
なぜ、洋服が似合わなければならないのか?
そもそも、なぜ「洋(西洋)」服なのか?
素敵なモデルのようなパリジェンヌであっても、着物姿は似合わんではないか?
もう世界各国はその国の「民族衣装」でよいではないか?
その方がよっぽどお国柄や風景までも浮かんできて楽しいではないか?
ブータンの国王、王妃はスーツやドレスを着ていない。
(好き嫌いは別にして)ダライ・ラマもスーツではない。
ガンジーやクリシュナムルティが英国留学中の「紳士」の格好はいかにも取ってつけたようだ。
帰国後、ガンジーなどはほぼ裸で生活した。
なぜ、背広姿がさも「先進国」でございますであって、アフリカやその他世界に散らばる少数民族が「後進国」「開発途上国」なんだろう?
だれがそんな価値観を振り回しているのだ?
それはむしろ「逆」じゃないのか?
(敗戦国だからとか始まるとメンド―なんでやめますよ)
和服着用で仕事の内容が変わる?
和服では、仕事をするのに機能的でないから?
いったい機能的、生産的とはなんだ?
奴隷じゃないんだ。
いい仕事をするのが第一じゃないか!
大量生産なんてAIやロボットやアンドロイドにやらせておけ!
グレイだって教えりゃやるぞ!
(あの、その辺の居酒屋で絡んでる質悪い酔っ払いではないですからね😂 わかる人にはわかります)
洋服は洋人?が着りゃいいもんだ。
我が国は我が国(その、国粋主義じゃなくってよ)。
あるじゃないですか。
着物が。
着流しが。
「わが社は明日から全員着物にて出社のこと。足元は下駄、雪駄、草鞋、草履OK、革靴、合皮靴、ハイヒール、スニーカーの類は厳禁」
ま、その、はじめは気おくれしますよ。
通勤電車に着物姿は。
その時間帯に和服は。
しかし、次第に着物勢、和服派が優勢になれば、今度は洋服派が小さくなります。
「なにいまどきスーツ着てんだか。あちらの企業にリクルートですか?」
みたいに。
いや~、想像しただけでも楽しいではないですか?
着流しの社員らがそろ~り、そろ~りとオフィスに集い、銅鑼かなんかの合図で始業。社長室には、勘定奉行みたいな装束の社長が鎮座している。
よき、よきではないか!?
ま、余談はこのくらいにして(私の場合、余談だけで終わってしまうケースも度々ですから😄)、本論に入ります、ってなんでしたっけ?
食文化に現れる精神性の高さ
そうそう、体格からして、それは作り上げられた幻想じゃないですか?
当然、そんなタイプじゃないわれわれ東洋人、日本人というものは、それがプロトタイプであるはずがないじゃないですか?
(八頭身なんて、見方によればおかしいですよ)
だいたい、大方の東洋人、日本人というものは精神性が高いんです。
自分(の肉体)よりも、大自然、八百万の神を優先する考えなんです。
だから、どちらかというと肉体的・物質的なものは看過する癖があるんです。
いいですか?
注意して聞いてくださいね?
そうした精神性が高ければ困るお方がいるんですよ。
断言します。
(・・・だから貶められたんですヨ)
私は、むかし、たまたま会社の旅行という形でケッコーいろいろな国に行く機会に恵まれましたが、向こう(欧米)は、まず食文化が低い。
時にない(←個人的な感想です)。
パリに行った際に、昼食で適当に「スパゲッティ・ボロネーゼ」なるものをオーダーすると、これが馬並みの量。
ロスでも、ハワイでも、ハンバーガーを頼むと「ド~だ!」とばかりに、皿の中央にドでかいひき肉の塊が鎮座し、それを取り囲む要塞のごときポテトフライ。
ステーキは草鞋。
硬い、でかい、安い。
その上にバターたっぷり乗せて、みたいな。
コレステロールも逃げ出すすさまじさ。
おまけに、コーラはレギュラーサイズでも飲みきれない量。
ガロンとかの単位ですからね。
さらに、デザートなど、ケーキはとても食用には適さないようなどぎつい色で、これまたでかい、しかも甘すぎる(←当時)。
「彼らには料理という繊細な観念がないな、これはせいぜいよく見積もって調理以外の何ものでもない」
「むしろ、これらは餌だな」(←あくまでも個人的な感想です)
もちろん、それを好意的な見方でいえば「わ、ワイルドだろ~💦」になります。
和食がもてはやされ、時代の波でビーガンやヘルシーフードが「最先端」となった昨今ですが、私の中ではこれが欧米の実態だと思いましたねえ。
(だからこそ、その反発としての和食やらなんでしょうね)
全然、根底から違う。
これはもはや、人種が違うレベルではなく、そのやってきた「☆彡」そのものが違うのでは?
そう思うと、いやそう思わない限り腑に落ちません。
海外生活をされている方はさらに根本的な違和感を経験されていることでしょう。
東洋の精神性を求めて・・・
私は、内装デザインに興味があり、よく向こう(西欧)のお部屋などをYouTubeで拝見するんですが、
まず明るい。
谷崎潤一郎の『陰影礼賛』的なものは皆無。
モダンなお宅の壁紙は日本人も好きな白が基調(私は嫌いですが)。
面白いのが、オフグリッド(電気系統のインフラがない環境)や、タイニーハウス(小型ハウス=トレーラーハウスなどの移動型が多い)などの「意識高い系」の若者たちの住まいによく目にするのが、仏像などの東洋的なアイテム。
彼らは大概、ヨガとか瞑想をやってます。
さらに、わざわざ部屋の一画に畳をに敷くような「数寄もの」もいます。.
いやいや、それは面白くはあっても、「それ違うでしょ」の景色なんですなあ。
なんというか、それは単なるエキゾチックな置物的で、精神性があまり感じられないんですねえ(部屋をめぐって、いきなり奈良の大仏のフィギュアみたいのが出現したら、それをどー解釈していいか戸惑いますよね?)。
同じことは、向こう(西欧)から、たとえば私たち日本人の家を見たときもいえますね。
モノマネから始まった欧米型のライフスタイルが一般化して、分譲マンションなどもほぼフローリングが当たり前、畳敷きの部屋は消えていきます。
しかし、彼ら(欧米人)にしてみれば、そんなものをどーやらいいとは思わないらしい。
彼らの中でも「意識高い系」の人が日本の家で好むのは、「昭和的」な「町屋的」な、障子や襖のある空間なんですね。
小津安二郎の映画セットみたいな。
面白いもんです。
日本人がどんどん「伝統」をかなぐり捨てて、明るい欧米型のライフスタイルを目指す一方で、向こうの方々は、日本や東洋のどちらかと言えば冥い伝統精神に惹かれる。
世界史の裏に中国の秘密結社あり
中国もそうです。
私はいまの彼の国は「嫌い」です。
差しさわりがありますので、文化面だけで見ると、残念なのは、やはり「文化大革命」でそれまでの素晴らしい中国文化が根絶やしにされたことですね。
しかし、中国はさすがに、文化的な意味では奥深い国です。
その底辺を作っているのは、ほとんどの方はご存じないかと思いますが、「青龍会」とか「赤龍会」らの秘密結社的組織(秘密にするというのは、大っぴらにするとまずい世界構造があるから)です。
フルフォード氏の「白龍会」は割合知られていますね?
中には道教(老子)の奥義を極めた本物の不老不死(錬金術)的な達者の集まる世界もあります。
アガルタ(地下の高踏的な一種の離脱文明)との関連もあります。
これらは陰に陽に世界の背後にいる超越的な光側の組織です。
フランス革命のジャンヌダルクや、マリーアントワネットなどの影にはその背後で活躍されていたサンジェルマン伯爵(実在しますよ)もいました。
この人も、中国のそういった方々との交流がありました。とりわけレオナルドダヴィンチは、ほぼ彼らの知恵の受け売り的なことをしていました。
(これも差しさわりがあるから言いませんが)現代でも、ある世界的な要人の背後にも彼らの存在があります。
ルネッサンスも彼らの成果です。
ボーンチャイナなどが欧米で席巻したのも中国の彼らの影響です。
陶器は17世紀ころからフランスをはじめ、ヨーロッパの上流社会で絶大な人気がありましたよね?
マリーアントワネットの身辺の家具調度が「中国趣味」であったのには理由があるんです。
わが国でもオールドノリタケやナルミなどで知られる陶器の輸出がそれを物語っています。
中国大陸の中で、「中国文化」を作ったなどという教科書的な知識ではなく、実は世界史の背後にこれら組織の暗躍(活躍)があったのです。それはもちろん洋の東西を問いません。
それは極めて精神性の深い光の組織です。
わが国でも「八咫烏」の存在は多くの方が知るところになりましたが、ほかにも文化の底流をなしている組織はたくさんありますね。
日本は、お隣とも中国とも、また東南アジア諸国とも違う特有の崇高な精神がある半面、何でも受け入れてしまい、下手をすれば自国よりも劣ったものまで崇めるという困った癖があるような。
根底は無私無欲だからなんでしょうね。
良い面の半面必ず良からぬ面があるものです。
これまで多くの思想家や経済学者がテーマにしてきた「東と西の会合」「平和問題」「人種問題」は、一見、西側の勝利のごとく見え、世界を席巻したかにも見える。
なぜなら、私たち、いや私の周囲を見渡しても、その問題をどーのこーのいう土台、価値観そのものが、すでに西側的な(つまり唯物論的な)ところに立っているから。
つまり、西欧文化により一元化してしまったというわけ。
もう世界は「東対西」ではない。
欧米から「日本精神」が逆輸入される日
多くの日本人は、物質的な意味での貧しさ、乏しさがすなわち「敗戦」という結果を招いたと信じ、高度成長を皮切りに欧米に追い付け追い越せで、富や物質こそ「神」とばかりに邁進してきた。
ここのところは、それがテクノロジーの進展、果てはAIの進展という形に変わったとは言え、考え方は何も変わっちゃいない。
欧米以上に「欧米か!」だ。
前にNWOに触れたが、これこそがNWOの「成果」だなんて誰も微塵も考えない。
そこに気づかないものは、自らのものの考え方がそうであるから、気づかないだけにすぎない。
一方、当の西欧諸国、米国などの若者たちの間では、逆の現象が起きている。
彼らが、真剣に求めているものは、われわれ日本人がかなぐり捨てて、その辺の粗大ごみ置き場にでも放棄した「精神」だ。
(蛇足ですが、それは「オモテナシ」とかいう次元のものではないですよ!)
熱心な彼らは、われわれ日本人よりもよく日本を勉強していて、その辺のTV文化で育ったような日本人などが、聞いたことも習ったこともないような「日本」をよく知っている。
これほど、日本人にとって情けないことはないのではないか?
中国も同じである。
経済学や地政学的な意味で彼の国の「脅威」を唱える学者は大勢おられるが、中国も日本もすでにその「考え方」「思想」が同根になってしまっているという本当の脅威を唱える者はいない。
桜沢如一は、50年も前に、
「世界は、ますます便利になり、ボタン一つで何でもできるようになる。同時に人々はますます不幸になるだろう。この東洋の「道」は、日本ではまったく忘れ去られたころに、欧米から「逆輸入」されることになるだろう」
と予測していた。
そのとおりになった。
われわれは、頭を下げて欧米人から、「東洋精神」を教えてもらうような日も近いことだろう。