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超能力を目の当たりにした話2―「今の時代」前夜

私が否定する内容は、私がかつて肯定してきたそれです(否定が当然であれば否定とは言いません)。
それはあるいは今あなたが肯定していることがらかも知れません。
わたし自身思いっきり肯定してきたことだからこそ、大胆にそれを否定できます。
あなたはときにそれに驚かれたり、疑念を持たれたり、不快に思われたりすることがあるかもしれません。
世間ではあまり耳にしないことだったりすれば当然です。

もちろん奇を衒っているのではありません。
しかし、それが果たして一歩前進したのか、三歩後退したのかは知りません。私にとってそれは大したことではないからです。
たとえばつい先ごろまでは十数年親しんできたスピリチュアリズムをあっさり放擲しました。スピリチュアルを否定するスピリチュアリストなわけです。

ただ、一つだけ確認しなくてはならないことがあるとすれば、それはこれまでに私たちが馴染んできた旧態依然としたものの見方・考え方にはもう何の力もないということ。
いまここで、そこに風穴を開けない限り、未来は拓けないでしょう。



捨て去ることと学ぶこと

そうした次第で、今の私にはやれ東洋哲学がどうしたの、仏教が、釈迦が、キリストが、古神道が、ヨーガが、密教が、禅が、秘教が、銀河戦争が・・といったものごとはもはやどうでもいい問題です。 

人は何かを得ることよりも、捨てることの方が、余程勇気が入ります。

たとえそれらが学生時代からそーとーにのめり込んできたことで、50年来のいわば私のアイデンティティともいえるものだったとしても。
さらに前述のように長く自分のバックボーンにあったスピリチュアルも。
人はそれを一番重要視するのでしょうが、それらは全部捨てました。
もう不要になったからです。
ということは、私の「アイデンティティ」と胸を張っていたものも、それは要するに単なる屑芥ちりあくたに過ぎません。

もう、私には何もありません。
空っぽです。

少し込み入った話ですが・・なぜなのか、といいますと、それはすでに実体ではなく、過去の死んだものになってしまっているからです。
仮にそうしたテーマを”崇高な”ものとしましょう。
学者、教育者、研究者は、それをそのように扱います。
そうしてそれらを形骸化するのではなく、形骸化(概念化)したうえでそれらと取り組みます。
(多くの研究者は「自分対問題」で、分析をしているだけです。自分と問題が別個になっています)
だからそれはすべて幻想です。

その幻想を見て、私たちはそれらと取り組みます。
だから、ついに魂が救われたり解放されたりすることはありません。
お気の毒にも、です。つまり、そこによりどころを求めたり、依存してはただの無為徒労で終わります。
外部に一点たりとも依存してはならないというのはそこです。

ここでも何度か触れた「陰陽哲学」も、すでにとうの昔に「死んだもの」として扱われてきました。
それについては私は30年ほど前に気づき、「はて、これはどうしたものなのか?」と自問自答していたものです。

このような「生命」を扱う哲学は、本来ボードに書いて云々と説明できるものではないのです。
そこにレジュメなどは無用です。
メモもいりません。
しかし、「えー、東洋哲学でいうところの陰陽とは、太古中央アジアの伏犠に始まる易の根本原理でありまして・・」風の”学説”や教条になってしまっています。でなければ宗教です。
彼は次の講演でも同じことを話します。

裏返せば、そうした「教育」に慣れてきた現代人(特に若い方々)は、「知識」を吸収すること、「教養の一環」として捉えたがるから、その方が「合理的」なのでしょう。
何かを「学ぶ」に当たって、その資料集めや下準備やらをして、いかに要点を抑えるのかが重要だからです。

しかしながらそうした方法論では、「生命」はとらえることは出来ません。
というか、そもそもそこに方法論はありません。
「生命」は暗記するものでもインプットするものでもないからです。
そこに「総論」も「各論」もありません。
「生命」は論理ではないからです。
それはあまりにも皮相すぎます。
よって、そんな学問はちっとも面白くないでしょう?


心は過去からは学べない

過去の教訓から学べ、といいます。
「故きを温ねて新しきを知る」と気づきます。
同じ轍は踏まない、と自戒します。
「吾日に吾が身を三省す」(論語)とかに頷きます。

過去というものは、あらゆる人類の経験の、その記憶の集大成で、それがいく時代も継続することで、それが伝統になります。
たとえば、私たち日本人が伝統的に米を食べるようにです。
このことは、良くも悪くも私たちの血肉になっているわけです。
私たちは、この自分ではなく、何万年も引き継いだ「経験」であり「知識」であり「伝統」です。または、それらとの「関係性」です。

それらはすべて「過去」のものです。
過去を大切にし、過去から学ぶことは無論大事なことに違いありません。

しかし、それは事象・物象的な事柄に対してのことであり、決して私たちの心、精神には当てはまりません。
なぜなら、心理的にも、いや心理的のほうが数段「過去」から引きずっているものがあるからです。
それはほとんど混沌です。
(いわゆる神霊界ー幽界ー人間界ー魑魅魍魎の跋扈するところの「考える」世界です)
その中でいったい私たちは何を「考えて」いるのでしょうか?

どなたかが、「心」という字は、それぞれ一点一画がバラバラで、定まらない様を表していると言っていました。
まさにそのように、いかにも私たちの心は不確実であるかのようです。


「心」=良く眺めれば、そこに止まるもの、流れるもの、向かうもの、などのオブジェクトがある


人のありのままの姿を見通すもの

世の中には、すなわち私たち人類のなかには、とんでもなく賢い人間もおります。戦争や争いばかりしている”猿にも劣る”私たちですが、やはり、人類捨てたもんじゃあないんです。
私たちのように上っ面でうごめく大多数の人間模様が、イコール人類だとするにはあまりにも人類の底は狭いが深い。
さながらマリアナ海溝のように。

そんなある先達は、この思考そして思考を超えた世界との関係性を(おそらく人類史上初に)ものの見事に解き明かしました。
私は彼によって目の前を覆っていた幕を一気に引きおろされました。

ここで多少とも私自身の「成果」を述べることができるのであれば、どういうえにしか、私は東洋古来の陰陽哲学というものに惹かれ、それにかぶりつくように夢中になり、気が付けば半世紀も生きてきてしまったような人間です。
今になって思えば、それはここで問題にしているような「考える」こととは違うように思われます。
なぜなら、それは私感私情で「考えて」はいないからです。
陰陽がもし生命エネルギーであれば、それによって考えることだから、そこに自我はありません。
しかし、まだ何か自分と世界との間にヴェールが一枚あって、それが何かがずーっと気になっていました。

彼が言うにはこういうことです。
たとえば快不快があります。
当然人は不快な状態から逃げようとします。

ここが毒蛇などが多数潜むジャングルだとします。
そこに知らずに踏み入ってしまった場合、私たちは逃げます。
平原へ脱出して難を逃れます。
物理的にはそれは当然の行為ですね。

しかし、それが心理的、精神的な面となると話は違います。
ここが重要なのです。
人は不快な状況、あるいは自分の嫌う状況に置かれているとき、何かそこに「救い」や「理想」を求め始めます。
現実(自分は馬鹿だ=A)→理想(自分は賢い=B)という思考という時間の流れをつくりだすのです。
だから彼はネクタイを締めたり、学術的な権威を気取ったり、(自分を高く表したいがために)他人を侮辱したりし始めます。
これは分裂です。
もう繰り返したくはありませんが、分裂こそあらゆる不幸、災難、紛争、戦争の大本になるものです!!


Aにとどまれ!

ここで注意してもらいたいのはAがAである場合、BがBである場合はそこに分裂はありません。
陰陽哲学ではAはBで、BはAだ、とします。
「分裂があるがゆえに同一だ」という考え方です。
または「一見分裂に見えるがそれは相補的だ」とも。
なぜなら、そのどちらかが無くてはもう一方は存在できないからです。
A(陰)は極まってB(陽)になり、その逆も然りで、両者は同じものです。
しかし、彼は言います。

「Aにとどまれ!」

いかに困難な、あるいは悲しみのどん底にいる自己であっても、そこから逃げるな!
ということです。

私の息子がある日突如として事故で死んだ。
それほどの悲劇はないでしょう。
しかし、似たような悲劇は人間世界ではざらに展開されます。
戦禍の中ではもうそれが珍しいことではありません。
そうした外部的な状況はあるいは避けようのない事実とします。
悲しみに泣き崩れる自分がいたとします。
それも事実です。
その胸をつんざくような悲しみにとどまれとは、無慈悲なようですが、結局どなたもその事実をどうすることもできません。

とどまらない場合はどういうことかといえば、私はたくさんそういう方を知っています。
息子の部屋を生前のままにしておき、朝夕に彼は彼女は泣きます。
また、彼との思い出に耐え切れず、その家を、その住み慣れた環境から立ち去ります。
猫を生前の息子に重ねて溺愛します。
新興宗教に慰めを求めます。
そういう方々がどうであるのかはご想像に任せます。

彼が言っていることは、自己というエゴにしがみつかず、秩序(ありのままの世界)と一体となれ、ということです。

彼は言います。
「そのとき、あなたはとんでもない素晴らしいものを発見するだろう」と。

ここで、あなたは、そして私は悟ります。
悲しみにとどまることとは、悲しみと自分とが完全に一体になることです。
悲しみが自分です。
自分には悲しみ以外微塵もありません。

そこに果たして「悲しみ」は在るでしょうか?
悲しみを見る目がどこにありますか?
いったい悲しみとは何ですか?


彼は東洋の陰陽哲学にさえも斬り込みを入れました。
一刀両断にしたのです。
(もちろん、彼自身そう語ってはいませんが)
同時にそれが何を意味するのかといえば、そこにあった「概念」というものを取り払ってしまったのです。
つまり、初めて世界と自己の関係性、それが一つであることを(理屈ではなく)明らかにしたのです。

これは難しい話かもしれません。
陰陽哲学ではAとBと二つのファクター、またはカテゴリーで物事を見ます。
というよりも、森羅万象をその二つのものに集約します。
たとえば、世の中におびただしい数の人間たちがいて、それらは多種多様の信仰や考え方や民族性やらでバラバラです。
しかし、それらを「性」で分ければ男と女の二者です。
大きく地域で分ければ東洋人西洋人、
血液型で分ければ、Rh+、-といった風にです。
それを仔細に検討すれば、おそらくあなたはその通りと頷きます。
二つのパワーが拮抗して物事が成り立っているのは「秩序」であり、自明のことだからです。
人間が考え出したものではありません。

しかしメンタル界で、安易にそれを見ていては傍観者になってしまいます。
「なるほど、苦があれば楽ってことか」のように。
これは分かったつもりになっているだけで、何もわかっていないことに等しいわけです。
苦が何たるかを、楽が何たるかを、です。

今になって思えば、その提唱者であった桜沢如一はこう叫んでいました。
「最大難関マジノ戦を突破せよ」(ちょっと時代めいた表現ですが)
「徹底せよ、どん底をつけ、ぶち抜け」

陰陽の陰に偏るな、陽に偏るな、というものが食養でも鉄則です。
このことは、今マクロビオティックをおやりになられている奇特な方は当然ご存じです。

しかし、この賢者は、陰そのもの、陽そのものになれ!
というではないですか。
なるほどそこに葛藤はない。
最も重要なことは、そこで初めて自己は傍観者ではなく、当事者になったということです。

これには、私も度肝を抜かれました。

彼の言葉遣いは、実に微妙デリケートといいますか神妙ミステリアスで、詩的でもあり、瞑想的でもあり、全的であり、洞察的でもあり、そして容赦がありません。
「言葉」というものはそもそも象徴でしかないので、そういう表現しかない、というより、正しく伝えようとすればそうした表現になるからでしょう。

彼は思考の限界を明確にし、思考を停止することは可能か? 自らの思考を見ること、思考の目ざめ、という前代未聞の”あり様”を提示しました。

それはおそらくどなたにとっても非常に難解な事柄でしょう。
なぜなら、それを理解したとしても、それは思考で、知識で理解したに過ぎないからです。
思考・知識というものが(何度も述べていますように)それ自体に制限があるものを、その制限で物事を見る、というのが普通だからです。
つまり、理解したといっても、全く理解していないと言っているようなものだからです。
お分かりでしょうか?

ま、そうなんです。
分かったような分からないような・・その中でどこか心に刺さって抜けないものがあるのだが、それをどう表現していいのやら。
それが、人知を超えた世界を表現しているのですから当然と言えば当然です。少なくとも「超能力を見てみたい」といった大方の物見遊山的な姿勢では何も掴めません。


共感者も理解者も連れもなくたった一人で行く未知なる道

そもそも、こうした心の問題、ミステリーを真摯に究明しようなどというものはほとんどいません。
みなどうしたら儲かるか、どこかにもっと楽しいこと、不思議なことはないか、月の裏側はどうなっているか、憂さ晴らしのはけ口はないか、自らの成長のためになる手引書はないか、スキルアップできる指南書はないか、何が自分のメリットになるか、どうしたら世間の注目を集められるか、どうしたら成功できるか、どうしたら寂しさを紛らす共感を呼べるのか、今のトレンドは何か、どうすれば受けるのか、モテるのか、売れるのか、ばかりを追い求めています。

それが人間ですか?
それが人間です。
なぜなら私がそうだからです。
私こそが、その猿にまで退化した人間です。
猿以上を決して求めない人間です。
それしか知らないからそこに何の落胆も恥じらいもありません。
さわやかなものです。

そうした浅薄な人間をつくる最大の要因は「教育」にあります。
私たちの「教育」こそ、偏執狂的な理念に基づく一つの新興宗教のようなものでした。
私たちはみなその”信者”だからです。
それをロックフェラーが作ったとか云々はもはやどーでもよい。
それは間違いの無いことでしょうが、もはやその改革は手遅れです。
どうしようもありません。
それがこの私の有様です。
どうしようもないことだから、どうもする必要はありません。
放っておきましょう。
改革などは徒労ですし、そもそも無意味です。
時すでに遅しです。

あなたの周囲を見渡してください。
だれも、心の問題に目を留めようともしません。
つまり、土俵にも上ってきません。
「それって何の得になるの?」です。

「心の問題」を喧伝しているのは
宗教かスピリチュアルに群がるルサンチマンの精神くらいで、
それをいいように利用し、標榜している者の心中は、
心の問題ではなく「カネの問題」です。

そもそも私はただ猿も木に登っているだけです。
だいいち私の得になるものであなたは損をします。
わたし自身それによってさらにみじめになります。

しかし、私がそうであるように、あなたはその無辺の世界の探検家です。
その道はどんどん狭くなっていきます。
そして探検の道案内人の姿もなく、他の隊員たちの姿も消え、あなたは完全に一人です。
道中、神として崇められてきたものの正体が実は魔物であることも見えてくるかもしれません。
その旅は、すべてのものが逆転する旅だからです。
しかも、それらの探検の道中が、どうやら外ではなく自分の中であることにすら気づくのかもしれません。

あなたが仮に、運よくそこに”真理”を発見したとしましょう。
それによって世界は救われますか?
救われません。
それどころか、微塵も影響を与えません。
だいいち、「世界を救う」ということ自体が妄想です。
何かを真理というのであれば、まさに上に挙げたような人間のエゴを一歩も出ない世界こそが真理です。

あなたは、そこまで来て、さらに道があることに気づきます。
そこで決して迷わないでください。
「人類はもっと高いものでなくてはならない」という魅惑的な標語が書かれたその道は、トラップです。
その道は、過去に数人の探検者が選択した道で、その先は崖に続いています。
あなたの共感したその「高いもの」という考えは知れたものだからです。

さあ、そこまで来たあなたは、もう何の迷いもありません。
何かをして人類の役に立つ、とか、
もっと人格を向上して素晴らしい人間にならなくては、とか、

あなたは過去を振り返ること
未来に希望を託すこと
今という地点からどこか別の地点に行くことをやめたのです。
そこに素のままで踏みとどまっています。

で、あなたはどうしますか?
まだ探検を続けますか?
その探検は、一体何を探しているのでしょうか?
まだ、目的があるのでしょうか?


「救われたい」
「何かしなくてはならない」

「・・でも何をしていいのか、何をどこから手をつけていいのか分からない」

そんな真剣な心の底からの叫びが去来するあなたは、まず、どこか外にそれを依存するのを止めるべきです。
一切です。
あなたがもし、縋っていいもの、願っていいものがあるとすればあなたご自身です。
いかなる叡智も、聖賢の言葉もあなたを救いません。
ただ一つ、今あなたが思ったそのこと──それはたいていあなたのその壮大な悲願とは程遠いものでしょう──を思った通りやることです。
そこにどんな世界が拓けるのでしょうか?




3へつづく


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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。