「それって、あの世へ持っていけますか?」
あなたは死ぬ。
私も死ぬ。
人は死ぬ。
その証拠に、いまこうして地上に生きているものより、
死んだ者の数のほうが圧倒的に多い。
生きることに忙しいと、つい死ぬことを忘れてしまいますね?💦
なかには1000年以上生きた、あるいは生きているものもいるし、少数だが不死のものもいるにはいる。
「え? そんな〇x△な?」
(という常識をなだめすかすのに少々疲れたので、そのまま先に行きます=以下同様)
だれが勝手にそう決めたんだかは知らないが、
(いや、おそらくアルコンの連中なんだろうが)
どうやら、いくら寿命が延びたとはいえ、いまのところ、人はそこそこの年齢で死んでいくらしい。
しかし、そんなことは別にたいした問題ではない。
なぜなら、単に(やれやれまた)死ぬだけで、また「あの世」で、あるいは気が向いたら「この世」で生きりゃいいだけのことだから。
問題は、「何を持ってゆくのか?」
である。
死んだ後の「死活問題」
「(日航機墜落事故の)真実は墓場まで持っていく」と、某大物政治家が吐いたとか吐かないとか。
秘密にしなければならないような真実を墓場まで持っていくのと、自らがその人生で獲得した「菩提心」を墓場まで持っていくのとでは、雲泥の差があるのでは?
いや、そればかりか、その当人にとっては文字通りの「死活問題」である。
内外の政治家の大物や指導者が死んで「国葬」とかいっても、実はせめてそのくらいしてあげないと彼ら彼女らも浮かばれない。
連中の魂は銀河の中央部にある文字通りの「セントラルサン」で解体され、もうすでに「個」としての存在が消え去られたからだ。
これが業界でいう「セントラルサン行き(送り)」だ。
(何の業界だか知らないが・・・)
闇側5億人が消される、消されなくてはならない
「光側」が優しくて、寛容で、殺しなどしないと夢見ているものにとってはショックだろうが、すでに、この世界でのセントラルサン行きの候補者は5億人もの数にも達している。
ということは、あなたの良く知っている「あの人」も、あるいは身近にいる「あの人」も、TVでよく見かける「あの顔」も、あるいは、ということである(いわゆるソシオパスと言われる連中)。
もちろんいきなり消される連中はまれで、木星の第三惑星・ガニメデにある銀河連合の施設で仕分けされ、改正の意志の無いものが連行されるわけだが、そんな”情状酌量”の余地すらないもので5億人である。
しかも、それにコバンザメのように付着していた悪党どもは、鼠算式にとんでもない数に上るだろう。
この地球がいかに闇に覆われているか、あるいはいたのかが想像できるではないか?
というより、おそらくあなたも私も、その想像できる範囲は闇のほんの一部でしかないことを、この数字が物語っている。
考えてもみたまえ、あの狡猾で凶悪で非情でおぞましい(・・・あああ、形容は際限ない!)「闇」に打ち勝つもの、それを凌駕するものが、いかに
並大抵ではない「力」を持っている
かだ。
ある意味、光ほど恐ろしいものはない(人間尺度で見て=というか、それ以上の存在がいないのですから当然ですが)。
「銀河法典」に則り、裁判では光に従う意思のないものを徹底的に断罪し、そうあろうとしない意思のものは、跡形もなく解体される。
ついにそこには「個」というものさえなくなり、一(単細胞)から出直すことになる。
一切の容赦がない。
これに、もし「お代官様、それはあまりに殺生でございまする」と歎願しても無駄だ。
それは「闇」の何たるかを皆目知らないものが吐くセリフだ。
それは、
一微塵たりとも残さず、徹底排除しなければならない存在
なのだ。
地上でいう「粛清」などはまだ生やさしい。
死んだ後も息の根を止めるのだ。
そこまでだからこそ、何百万年もの長きにわたって光と闇の攻防戦が展開されてきたわけであり、いまここにそれが終結するということは、そこまでのすさまじいばかりの血みどろの背景があってのことだ。
その辺の戦国時代の戦などとわけが違う。
相手は、宇宙ですら破壊させてしまうような量子爆弾(トップレットやストレンジレット)をプラズマ界やエーテル界などに装備し、エーテル層でとんでもない数の核爆発を起こし、そのポータルからさらなる「闇」を侵入させたり、地球の人類やプレアデス人まで人質にして光側の戦力を弱めたり、バビロニア金融奴隷システムによる紙幣やクレジットカードで人類奴隷化を実現し、スマホによる人類の孤立化を実現したり、5Gによる心身弱体化を図ったり、ウイルスをばらまいて人口削減をもくろんだり、HAARPで気象操作をしたり、世界中の地下に通路や施設を作り要塞としたり、世界中の幼児を集め虐待殺戮したり、ベールという電磁周波数フェンスでエーテル・アストラル界を覆い、善意の異星人の介入を阻んだり、アセンデッドマスターとの交信を断ったり、死後の人の魂を捕らえて前世の記憶を抹消したり、死後ですらベールから決して外部に出られなくしたり、闇の契約をさせてから転生させたり、女神信仰を完膚なきまでに破壊したり、広島、長崎、阪神淡路、311などの所業で、さらに「闇」を呼び込んだり・・・「たり」「たり」「たり」の何十乗もの悪の権化なのだ。
よく、「悪魔的」とか「悪魔の所業」とか比喩で言うが、
「本人です。」
そのものなのだから当然だ。
(初見の方へ:これは、「常識」のほんの一部としてチェックしておいてください。でないと、「敵」が見えません。「イベント」でさらなる全悪事が露呈されますが、耐性をつくっていないと=事実を知らないと=おそらく失神します。また死後の世界があるのかないのか、とか宇宙人がいるのかいないのかとかの議論はそういうお仲間同士でやってください)
あれもこれもそれも持っていけません
(アレ? なんかずれてきてますね? つい「昭和」の熱くてむさくるしい、タバコの煙が蔓延しているオフィスで、シャツを腕まくりし、コーヒーを何杯もがぶ飲みしていたころの若き血潮がそうさせてました(笑))
ここでゴーインに話を戻します。
お話しは「あの世に持っていくもの」でした。
簡単なお話しです。
あの世なんですから、「物」は一切持っていけませんでしたー。
それはいいんですが、あなたは疑問に思ったことがありませんか?
「こんなことしててなんになるんだろう?」
お仕事などの場合、そう思うのはフツーでしょうが、それには、
「生活のため」という一応大義名分があります。
それで、疑問の虫はごまかせます。
しかし、あなたは何のために学んでいますか?
何を学んでいますか?
あるいは(ヨガとか瞑想とかの修行)を何のためにしてますか?
この世で何を得ようとしてますか?
で、それらをどこに持っていくつもりですか?
もし、それらが、
「知識を広げるため」とか
「健康のため」とか
「美容のため」とか
「スキルアップ」とか
「お金を貯めるため」とか
「資格」
やらなんやらであったら、
それは、
あなたが死んだときに、一緒に終了
です。
ということは、この世でもしそれのみしか習得していなかったら、あなたは丸腰のまま「あの世」へ行くことになります。
「死んだらそれでおしまい」
と考える人はそれでいいかもしれません。
しかし、あなたはそんなことはないはずです。
せっかく勉強や修行をしてきたものが、死んでおしまいであったらたまらなくないですか?
人生とは、そんなものではないはずです。
「まっと―に生きなくては」
とか
「お天道様が見ているから」
とか
「心を美しく保たなければ」
とかの気持ちは、多かれ少なかれ誰しも持っているものですね?
あなたが学んだものはちゃんと「記憶」されているからご安心ください。
脳みそではなくて、記憶はアカシックレコードみたいに宇宙空間にあります。
ただその記憶が、「宅建建物取引業法」とか「ボイラー溶接師の資格」などもろもろであっても、おそらくは役に立たないだろうということです。
あの世でも、さらにその先のあの世でも、未来永劫に役に立つもの、道しるべは、
心の修行とはいいませんが、
心の糧になるものです。
だから、昔のお坊さんや、偉い人たちはそれを命がけで求めたのです。
それもこれも「アセンション」のためです。
生活そのものを「道」にする
では、そのために私たちはいますぐ家族を捨て、剃髪して、寺に駆け込んで、朝4時に起きて壁に向かわなくてはならないのか?
トラピスト修道院で、孤独な修行をしたり、バターやチーズづくりに専念しなくてはならないのか?
まーそれもいいかもしれませんが、そんなことよりも、
なんでもいいので、何かに専念することです。
それを「道」にしちゃうことです。
究めることです。
お読みになってない方はぜひご覧いただきたいのですが、
好きな「芋頭」でさえ、究めて「道」にした人がいたではないですか?
「道」という乗り物はお気楽で永遠だよ
日本人には「道」という偉大な生活哲学があります。
哲学の最高峰です。
茶を啜る卑近な生活の習慣を「茶道」に、
その辺の雑草を「華道」に、
相手を倒す方法を「武道」に、
さらにそれを発展させて「柔道」「合気道」に、
棒を振り回すことを「剣道」に、
まさに、幼虫から美しい蝶に生まれ変わるようにそれを昇華させました。
科学が好きな人なら科学
物を書くことが好きな人なら物書き
ゲームが好きな人ならゲーム(卓越者には、しかるべき機関から引き合いまでくるそうですよ?)
卓球が好きな人なら卓球
極道が好きな人なら極道
酒が好きな人なら酒
悪口が好きな人なら悪口
すべて究めて「道」にしてみようではありませんか?
「悪口」だって、「道」まで昇華したら尊いものです。
それらは、すべてこの世あの世無関係な、本来の人生の旅路に大いに役に立つものです。
(もっとも、どーいうわけか極道だけは、すでに道がついてる上に極まっちゃってますが・・・ということは、そればかりは、やる必要がないということかもしれませんね)
「人は死んだら終わり」という人は、終わります。
なぜなら、それは裏返せば「偶々私はここにいる」という「闇」すなわち「偶然性」「初期異常(プライマリーアノマリー)」そのものの思想だから。
そう思ってこの世を生きる人と、
永遠の生を自覚してこの世を生きる人
この世でやることの中身が大きく違ってきます。
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。