【放談】「神霊」を敬して遠ざける。いわんや守護霊においておや
その前で卑屈にならない。生きとし生けるものは友達だ
(前回に続く)
翻って神霊界隈(ひるがえり過ぎだけど?)。
僕が宗教嫌いなのは、それ(神霊)を拝んじゃう点だ。
あと、よく言う「生かされている」という感覚。
いずれも、さももっともそうではあるが、子供にはそうした感覚はない。
これらは、ヒエラルキーを生む。
それがどういうことかといえば
支配・被支配の構造を生む。
これは巧妙にできた宗教にまつわる「罠」である。
「神」に代わる「何者か」がそれを利用しているからだ。
その「何者か」には、当然高級神霊すらも該当する場合もある。
神霊とは、元は多く「人格神」のことが多い。
あるいは「鬼神」とか、「精霊」とか、一般にアニミズムと結びつけた存在に対して言う。
その神格の高低こそあるが、それぞれ個性があるし、癖がある存在だ。中には災禍をもたらすものすらある。
だから僕がよく言う「何ものも信じない」というスタンスは、実は「神」と「自己」のパイプのみに絞り、その他神霊に依存しないということだ。
「禅」的なそれである。
僕たちが言う「日本」とは何か?
この「姿勢」は我が「日本国」の発祥にまで遡る。
僕らが「日本人」というときに、それは何を指しているのだろうか?
多くは、大和朝廷による「体制側」の国民を指してそう呼ぶことが多い。
「私たちは大和民族である」といった風に。
当然そこには、秦氏はじめ渡来系の民族も取り込まれたことは言うまでもないが、それ以前に大和を治めていた鐃速日命ー物部氏との確執は研究者のみが覗く「もう一つの日本史」である。
このあたりの真相は、いつの時代も歴史書が勝者のそれであることから、記紀などでもつまびらかにされないでお茶を濁すような記述で逃げている。
『ホツマツタエ(秀真伝)』によれば、そもそもの天照大神は「アマテル」という男神で登場するし、気になるのは神武東征のストーリーが、結局は九州を起点に、西日本・近畿地方の豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)=饒速日の義理の兄=を斃すまでの英雄譚で終わる点だ。
その後、奈良時代まで続く蝦夷征討。
そこには、いつも東漸がテーマであり、その「東」の正体は、みちのくの玄関・白河の関以北北海道にまでまたがるそれ以前からあった大きな文明文化を指しているような気がしてならない。
歴史とは自分探しの旅と見つけたり
現代におけるホツマの再発見者松本善之助氏によれば、西側での文化以前に高皇産霊神を祖とする「日高見国」は東北地方にすでに存在していたことから、青森県で発見された「三内丸山古墳」はじめ縄文遺跡が圧倒的にこの地域で出土されていることがその傍証であるのかもしれない。
面白いのは、畿内大和の「邪馬台国」で平和に暮らしていた先の長髄彦が神武一派により瀕死の大けがを負いつつ逃げ込んだのが青森県津軽地方だという説。
これは『東日流外三郡誌』に詳しい。
さらに、古来からこの地は「蝦夷(えぞ)」とか「蝦夷(えみし)」とかの夷狄扱いをされてきたのはなぜか?(これは中華思想の焼きなましではないか?)
松尾芭蕉が『奥の細道』で奥州・北陸路へとむかった理由は何か?
金光教、大本教で鬼門の神、鬼神とされてきた「艮の金神」すなわち「国之常立神」が今息を吹き返し、堰を切ったように数々の神示(日月神示など)を挙げているのはなぜか?
その神こそ、わが国の祖神である事実、それを(勝手に決めた)鬼門に封印してきたこれまた事実は、いったい何を意味するのか?
僕たちが「日本」というとき、史実的には「大和」に併合される前の東北地方に栄えた日高見国の存在を看過できない。
なぜなら、「日高見国」=「日出国」だからだ。
権力と抵抗勢力。
繰り返すが、歴史は勝者の歴史「HIS STORY」である。
それは、あるいは他人の歴史である可能性もある。
重要なのは、ことが僕たち日本人のルーツにかかわるものであったとき、軽々に教科書的な歴史を鵜呑みにすると、とんでもないことになりそうだということ。
そろそろ「MY STORY」=MYSTERY(ミステリー)に立ち戻らないとならない、とはこじつけか(笑)
さて、トリビアに嵌まり込むのはこのくらいにして。
まことの神に一切の賢しらはない
まことの「神」(という表現には齟齬があるだろうが、要は「創造神」の意)は、僕ら人間の「信」「不信」などを超越しているし、それが何かを「支配」したり、指示したりというように、僕らの自由意志を規制したりはしない。
僕らが「生かされている」と感嘆・感謝する以上(以前)に、それはそもそも「節理」である。
立派だったり、荘厳だったり、まして崇拝の対象ですらない。
それでいて、僕らの卑近な生活に無関心というわけでもなく、常に寄り添ってくれており、しかもユーモアのセンスすらある(笑)←これ、理解難しいでしょ?
幸い、僕ら日本人には「神」という概念が不在である。
なぜ、「不在」なのか?
神=自然=自己
で、そこに境界線がないから、あえて「神」を持ち出す必要がないということ。
当然、それを「信じる」要すらない。
逆に言えば、(何らかの)神を信じ始めれば、それは二元論のマトリクス世界への「転落」ですらある。
神というもんは「一」であり「すべて」である。
アルファでありオメガである。
神≠神霊、神≧神霊、神霊=ひと
「神霊」は「神」そのものではない。
八百万だ。
それに「神」が宿る、という言葉に注意すれば、
それらが、創造神そのものではなく、既に創造された、造化された存在であることが分かる。
つまり、我々と同じ立場である。
まあ悪く言えば、ピンキリ、玉石混交である。
大したもんじゃないのから、こちらが目を開けていられないほど神々しい(光々しい)存在まで。
大したもんじゃない奴は、たいがいありきたりの、どこかで聞いた覚えがあるような、教訓じみたご宣託を垂れる。
僕たちが気をつけなくてはならないのは、俗にいう「神」やら「異星人」を崇めてしまう点だ。
そうされることを喜んだり、強要してくるものも過去にはたくさんいた。
しかし、高い存在はそんなことを言わないし、しない。
そんな輩と出くわしたら、こう言うのがいい。
あーあ、耳タコですわ、悪いがあなたが訪ねるべきところはここじゃあないですよ。
この地上には、自分以外の何かにすがりたいようなおめでたい人や、「権威」とか「名誉」とか「学識」なんかを大事にするような俗人がわんさといるから、そっちの方をあたってみたらいいよ。
まだ、あなたの需要はあるかもだよ。
いや、あなたにひれ伏したり涙を流して有難がる輩も大勢見つかること請け合いだ。
ただ、忘れちゃならないよ。
そういう「信者」という烏合の衆を集めるってことは、あなたご自身が昔ながらの奴隷制度を作ってしまうんだってことをね。
言うまでもないだろう?
それは罪作りなことで、あなたの「業」をまたぞろ深めることに他ならないってことさ。
僕はね、なにも偉そうに言ってるんじゃないさ。
だって、子供たちを見てごらん?
素直だろ?
純粋だろ?
分かったかな?
あなたのそんな「裃」なんて要らないってことが。
申し訳ないがそれは時代錯誤ってもんだよ。
せっかくここに来たんだから、遊ぶんだったらOKだけど、退屈なお説教や余計な指示は勘弁さ。
あなたはまずその古風な道学者じみた構えを捨てることを学ばなくてはならないよ。
来てもらって、逆にこちらから言うのもなんだけどね、そんなお話ばかり年中聞いてたら、誰だっていやはや退屈で、あくびが止まらないさ。
え? まさか僕の「ため口」が気に入らない?
神霊に対して失礼な?
失敬な?
いいかい?
あなたは日本出身なんだろ?
ならば、一切合切、すべての衆生が「神」であることくらい、教わらずとも魂レベルで知ってるよね?
その八百万の神々のなかに「差別」なんてどこにも存在しないのさ。
でも、その「失礼」「失敬」にはすでに差別がある。
その言葉の裏には「礼」や「敬う」というある種強制がある。
それは、一体だれに対しての「礼」や「敬」なんだ?
本来は万人が相互に(お互いの神性に対して)礼をもって敬うのでなくては、それは軍隊になってしまうんだよ。
あなたの姿勢は、さながら
私は神だ。偉いんだ。尊いんだ。だから君らのような半端ものは私に礼を尽くし、敬うべきだ!
と言ってるに等しいじゃないか。
まあ分かるよ。
あなたがたのなかにも厳しい位階制度があるのは。
そりゃご苦労様だろう。
でもね、あなたも含めて勘違いしている地上の人間たちはもとより、神霊や、多少なりとも高級な異星の民に言わせてもらうよ。
森羅万象、万物、一切の衆生はすべてユニックであり、独立した存在である。それを神性ともいう。そこにはそれぞれのレベルで発展・発達段階にあり、よってあらゆるものにはすべて差異がある。それを位階というのなら構わないが、それは個々の魂の成長過程にすぎず、それらに宿る個々の神性と同一視してはならない。すべて一緒。すべて神。優劣も高低もなし。以後この理をかみしめて位階制度を取り払え!
言っちゃなんだけどさ、どんなに高級な神霊であろうが、ぼくはそれを敬ったり崇めたりしないね。
一応、建前でそんな風な言葉を使っちゃいるけど、実際は「耳を傾ける」「勉強する」「参考にする」でいいし、「一緒に遊ぶ」ならなおふさわしい。
彼らもそう望んでいる。
第一、高級神霊たちは、絶対に自分を信じろとか、敬えなんて言わないよ。
まして、自分のようになれ! なんて言わない。思ってもいない。
彼ら彼女らは極めて謙虚で、荒ぶるような大言壮語は吐かない。
だから、友だちにはうってつけなんだが、いかんせん彼らの波動は高すぎて、顕現してしまうと誰もまぶしくて直視できないし、体ごと吹っ飛ばされてしまうよ。
だから、テレパシーという形でやって来るね。
位階を立てない「言挙げしない国」
彼らは知っているから、無用のことだけどさ、何ものかを「神」としてそこに建て、祀る(奉る)なんて―ことをするとさ、これは「括る」という行為になる。
そこに他者、外界との境界線を作って、悪く言えば閉じ込めてしまうんだ。
艮の金神さまなんかも長らく封印されていた神様だね。
もしかしたら東国(東北地方)の縄文由来の日本の祖神様かもしれないね。時の権力がそれを知っていて畏れていたんだろうね。
それは、名前を付けるという行為に似ているね。
陰陽道などでは、言霊の扱いにはひどく神経質になるんだ。
下手をすると災禍を引き起こすからね。
我が国が「言挙げしない国」ってのは、括らないということ。
つまり境界を作らずに、すべて同じ価値観で見ることに重きを置いたのさ。
「天国流」さ。
あなたも、いやしくも豊蘆原の瑞穂の国の神霊ならご存じのはず。
八百万の神々が手と手をつなぎ、争わず、一個の例外もなく排斥せず、その一体感を喜びとしてその生を全うする。
ならばどーだ。
そこには悪魔も、ゲジゲジも、毛虫も、ゴ、ゴ、いやGも、5爺も、爺爺も、あなた方高い存在と一緒ではないか? でも、その、嫌だろう? やっぱり。いくら成長過程だからたって、そっち経由で成長すんのか? ってのもぞろぞろいるだろう? いくら「一寸の虫にも五分の魂」たって、一寸だからまだましだが、それが一尺もあった日には、いくら悟りを開いたあなた様ったって、卒倒するだろ? 南米・アマゾンなんかに行ってみな、そんなのわんさかいるから。だいたい蟻地獄とか、蜘蛛や、食虫植物なんて存在は狡猾じゃないか? ただ黙って手ぐすね引いて獲物を待っている。そうした存在はどーだ? そいつはどこかの阿漕な大企業の重役並じゃないか? それも憐憫や慈悲の対象か? しかもわれわれはそれらを排除したり、殺めたり平気でするじゃないか? 神様が「羊頭狗肉」じゃいけないや。万物万象が生かされる権利があるなんて言葉は嘘で、そいつは美辞麗句にすぎるじゃないか!? 僕は嫌だね。嫌なもんは嫌。どんなに全体の進化・造化に必要なもんたって、生理的に受け付けんものはどーしよーもないじゃあないか? いいかい、この世界には、きれいごとじゃ済まされないことがたくさんあるんだ。あなたがたは、いつもそうした物事に「臭いものには蓋」式に見て見ぬふりをする。
(水を打ったようにシーン)
天女「ホホホホ、面白いことをおっしゃる方ね。そんなところは神々でさえも目を伏せて通り過ぎるところよ。そんなところにこだわってはみ出しちゃった方は一休宗純(一休さん)くらいのものよ。あなたは妥協がないのね、オトナはそんなこと言わないの」
神霊「コホン。そ、それはね、君、この世界が二元性で成り立っていることの裏面の姿じゃよ。ほれ、どんなにきらびやかな舞台でも、舞台裏、楽屋があるじゃろ? そこは大概陽が指すことはなく、暗いもんなんじゃ」
神界事務局「えー、この度ご指摘のありました事態に関しましては、造化局の方に問い合わせましたところ、ただいまのところまだ返答をもらっていない次第でございまして、おそらくは何らかの手違いでそのような化生のものが生まれることになったかと・・」
神々ですら解けないこのテーマ。
あなたはどうとらえますか?
「不敬」について物申す
戦前には「不敬罪」「大逆罪」というものがあった。
要は、「やんごとなき存在」に対しての「侮蔑」や「軽視」、時に「殺傷沙汰」に至る”謀反もの”への断罪である。
ま、法治的な「取り締まり」である。
ご存じのようにGHQらグローバリズムの先兵の圧力でその「刑法」は廃止されたわけだが、彼ら「闇側」はある意味とんだ失策をしでかしたともいえる。
日本という「国家」を解体しようという試みが、逆に眠っている子を起こしたからだ。
さて、陰陽道あたりに端を発する「鬼門」「裏鬼門」という概念がある。
「鬼門」は北東。
「裏鬼門」は南西。
いずれも、「よろしくない」「禍々しさ」の代名詞。
平安京の構造が、風水(日本風水)、陰陽道によるものであることは有名だが、要はこれは呪術。
先ほどの「言霊」ではないが、「括る」ということで他界との結界をつくる。
それにしても、この「鬼門・裏鬼門」自体が、京の都を起点にしてのものであれば、なるほど東北が鬼門に当たるのは分かるが、東北地方に住むものにとっては、それよりさらに東北の樺太やロシアなどが鬼門になって、自らの地は平安ってことか? ぐるっと地球を一周すれば、それは京の南西部の裏鬼門に行き着くんでは?
また、京より以西の地域(裏鬼門)に住むものにとって、京は「鬼門」ではないのか?
なーんて、こりゃ詭弁? 揚げ足取り?
いやいやこれこそ呪術の正体「括る」ということだ。
京(天皇=権力者)を守ることが務めで、陰陽師・呪禁師、宿曜師らが活躍、または暗躍したのだろう。
言うまでもなく、「守る」ということは「敵」または謀反勢力(屈服していない勢力)がいたことの証左である。
一体、どこまでそれを恐れたのだろうか?
恐れざる得ない何があったのだろうか?
歌人でもあった順徳天皇はじめ、日蓮上人、世阿弥らそれぞれ一家を成したそうそうたる人物らが鬼門の島「佐渡島」に流された。
鬼門という言葉もさることながら、流罪とはまあひどいもんである。
「善悪」は、時の権力が決めるものか?
「敬不敬」とは、権力に対するそれなのか?
いやいやいやいやcompletely different!!
くれぐれも騙されないよう。