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「敵国」なんてない。「戦争」が敵だ。

闇がない世界ってあり得るのかい? という考察
────────その4【最終回】:闇はこの世のものではない

このところ、ずーっと闇ばかり見てきたおかげで、なんか鳥目がちな今日この頃です。昔から言いますね、無闇に闇を探求するのは闇雲に悩みを病むるがごとし。・・・即興というか苦肉なんで意味不明でしょうが、なんとなくニュアンスは伝わりますでしょうか? あの映画マトリックスで、エージェント・スミスと接したネオが、黒ーい奴に浸食されるような事態に、同志諸君もご注意ください(え? 誰が勝手に同志って? まあまあ)。昔の人はうまいことを言いました。「毒食らわば皿まで」「闇食らわばどんぶりまで」。よっしゃ、徹底的に叩きのめしてやろうじゃないか!(←なんか、この暮れの忙しいときに、こんなシャドーボクシングみたいなセリフをほざいている人間像が切ないですね。ママから、「よしよし、わかったから、もういい加減にそのくらいにしてお寝んねしなさいね」となだめすかしが入りそう)


突然ですが、冒頭で私はお詫びというより、告白しなくてはならないことがあります。
それは、この「闇がない世界ってあり得るのかい? という考察」シリーズのその2の末尾あたりに、こんなセリフが出てきます。

「挙句の果てには、本気で「闇」や「悪」があって当然、または、あってもいたし方がないものだ、と考える人たちがいるんです。」

その「挙句の果て」は、私です。

自覚しながら書きました。

正確には、長いこと判断つきかねていたことの一つのテーマだったからです。それは、わりあい最近までです。

私はこの問題と、もう一つ、人は「できた人間」ではないと、救われないのか? もしくはアセンション出来ないのか? という問題が長らく頭の中で巣くっていたのです(そうではないという意識)。

その「できた人間」の中身は、さすがに高官になったり大企業にでも就職するわけではないので「高学歴」とか「高学識」とかではないことはもちろんですが、少なからず、「精神性の高さ」が問題になってくるわけです。

自らの卑近かつ周辺の猥雑な問題は置いておいて、そんなことよりももっと大きくて甚深な問題を悩む人物。自らは粗衣粗食に甘んじながらも、社会や地球の未来に思いをはせるような崇高な精神。

一人静かに瞑想したり、人知れず修行をしているような人物。

どこをどう見てもこの地上に、そういう人物は少ない。実に少ないではないか?

一方で、多勢を占める「おいちゃん、おばちゃん」「兄い」「お姉」「ごしんぞうさん」「おかん」「じっちゃん、ばっちゃん」「ぎっこん、ばったん」「すけさん、かくさん」「うこん、さこん」「うぞう、むぞう」「ちゃびん、はげちゃびん」「たこしゃちょう」「かーるおじさん」「へんなおじさん」「とせいにん」「しかけにん」「ちゃまちゃま」「びんぼっちゃま」「どかんくん」「こふぃーちゃん」「ひょうたんつぎ」らの怒涛のような声もまた聞こえてくるではないか?

その大半は善男善女で、好感が持てる人たちだ。そんな中に私も大好きな人物がたくさんいるわけです。しかし、ほとんどが「シンソー」だのなんだのを知ろうとしない。我関せず。浮世で何があってどうしたで一日が暮れていくような人たち。

謎だ


そういうことです。
その問題。これは仏教でいえば「大乗」「小乗」のお話に接近する事柄ですが、これについては私は別に書いているので、そちらもいずれアップする予定です。


話を戻しまして、果たして

この世に「闇」や「悪」というものは、本当にその存在価値がないものなのか? 

という問題。これについては、けっこー皆さまのなかでもご意見の分かれるところでしょうが、私見では、わりあい物事を深く考える人ほど「必要」と言うだろうし、そうでもない人は「不要」というより、受け付けないようです。

なぜならこの世には「必要悪」などという言葉もあって、「悪」には「悪」を持って対処するといった「目には目を」的な考え方もあるし、単なる「勧善懲悪かんぜんちょうあく」を薄っぺらい見方だとする風潮もありますから。

これは、「必殺仕置き人」やらの辛口が受ける理由ですね。しかし我ながら古いですねえ。 まあまあ(ニキニキニキの二木の菓子、古くってどーもすみません)。

しかし、一方では「鉄腕アトム」のような、もとい「暴れん坊将軍」のような、もとい「アンパンマン」のような、「正義の味方」は、やはり圧倒的な人気があるわけです。
「許せん!」「悪をぶった斬る!」的な、痛快で直球の世界観です。人情旅役者のようで、なんというか潔くて好きです。


この世は二元性の世界だから、常に二通りの見方があり、それらはあざなえる縄、コインの裏表です。

表が美しければ、裏はアブストラクト芸術のように意味不明の、ゴブラン織りのような世界です。

いつも両者は切っても切れない関係で、片方を消し去ればもう片方も消えてしまうし、片方を良しとすれば、もう片方を悪いとすることと等しくなります。

あなたが男が嫌いで、この世から男をすべて排除したら、それ以降この世は男のみならず人類が絶たれます。種が絶えます。

この世にAという物事を表そうとした時点で、すでに暗にアンチA、もしくはA´やBを表していることと等しいのです。だからいつも喧嘩してるんです。自家撞着のようでも二律背反のようでもあります。

哀れみや同情といった善意で重篤患者に飲ませた水が、文字通り「末期の水」になることもあります。

これがこの三次元(二元性)世界の定めで、例外はありません。


「あざなえる縄」が一本の縄であること。

裏表あるコインが一枚のコインであること。

二つのものは一つであること。
二元性というものは一元の(この世という三次元的な)表現であること。

ということは、どこをどう探しても、どこをどうあがいても、実は一元世界(ワンネス)しかないということ。

これは「老子」的な考え方で、東洋哲学の神髄です。


きわめて大事な問題なので、詳しくはこれも別稿に譲るとして、さてここでいよいよ「光」と「闇」です。その核心にだんだん迫ってきました。

「苦あれば楽あり」
「艱難汝を玉にす」
「忍耐」
「冬来りなば春遠からじ」
「若いときの苦労は買ってでもせよ」
「夜明けは必ず来る」
「一陽来復」
・・・まだまだありますね。

それらの言葉、ことわざ、先人の残した知恵や教訓のなかに、共通して一陣の北風が吹いている。

艱難汝を玉にす


「困難」「難事」「苦」「逆境」

それらをむしろ「有難い」としてとらえる精神。
おそらくあなたや私も、何度これらの言葉に励まされ、涙をかみしめ、這い上がろう、立ち上がろうとしてきたことか?

そうした「美風」の北風に鍛えられた人物は、東洋、とりわけ日本には昔はざらにいました。

「家は漏らぬほど食事は飢えぬほどにてたる事なり」(南方禄)
など、清貧に甘んじるような人生観。
(後世、金持ちや趣味人の手慰みと堕した)「侘び」「寂び」の本来の世界観。

とても、いまどきの「意識高い系」の面々には受け入れがたいそれですね。ひねもすPCで株価のチャートや値動きをチェックしているような方々にとっては、「寝耳に水」でしょう。


しかし、次のような「北風」はどうだろう?

戦争
殺人
その他もろもろの悪事

まさか「戦争」があるからこそ「平和」があるとは考えないですね?
「殺人」があるから「平穏無事」があるならたまらないですね?

第一、それらはいつ逆転するやらわからない。
油断も隙もない連中です。

「ああ、また戦争だ。お国のため、ここは一番潮が引くまでじっと我慢するか。必ず勝って平和がやってくる」

とあなたは言えますか?

でも、冷静に考えれば我々はそんなことを何度もつぶやいてきたし、実際世の中そんな風になっています。

太平洋戦争下の我が国民の(正確には国民に与えられた)スローガンも似たようなものでした。

そんなことの繰り返しです。
何かがおかしい。
なぜだ?

ジョン・マーティン作「大洪水」

敵は敵国ではなく、「戦争」そのものの存在ではないですか?

完膚なきまでに断絶すべきは戦争の根っこの「闇」の存在ではないですか?


私も、あなたも、私たちの周囲にも、世界のどこの国のどこの都市にもどこの田舎にも、「早くS E N S O コナイッカナー」なんて思っている人はいません。

だれも望まないのに周期的にやってくる「戦争」
いったいそれは、どこからやってくるのでしょうか?

もちろん、現代のそれは「経済戦争」「情報戦争」であり、ディープステート(軍産複合体・医産複合体)が仕掛けて云々・・・構造的にはそうであれ、敵はそのディープステートやカバールを操っている「闇」の勢力です。

それこそが真の、というより唯一の「敵」です。
ほかに、私たち人類に「敵」なんていません。
そんのものは、本来無くていいものですし、あってはならないものです。


A⇔B 何らかの火種を作り、AとBが対立し、それが常に「戦争」という形に発展してきた。

やれAがどーの、Bがどーした・・・違いますね。
なぜなら、対立しているAとBに衆目を向けさせているだけにすぎませんから。

そこにいくら論争を重ねても何も見えてきません。
水掛け論です。

火種を作って仕掛けてきたのは、その真ん中にいて、ほくそ笑んでいる奴です。
戦争をしている当事者AとBが戦争をしているのではありません。

つまり、戦争そのものが先にあるんです。

そいつにとっては、AでもB でも、CでもDでもいいのです。

はじめに戦争ありきなんです。それを動かしているものこそが真犯人なのです。

そこに後から任意のAとかBという駒を当てはめてるだけです。

A⇔B
敵は真ん中にいます。
AでもBでもないのです。⇔こそ敵です。

「汝の敵を愛せよ」という言葉は、先に挙げた「美風」の風が言う言葉です。あるいは上記の構造を知った上でのAとBの、相互にあるべき姿です(「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」はおそらくは後世の意図的な創作か改ざんでしょう)。

美風、春風、いや北風もいいでしょう。
しかし、
殺人。
戦争。
大量虐殺。
無差別殺人。
さらには、核戦争。
AIによるディストピア計画・・・

ここに吹く風は「凶悪な嵐」ではないですか?

それは、唯一この世で受け入れがたい、容認できないもの。
臨界点、我慢を超えたもの。人間業ではないもの。
それこそ、唯一私たち人類が一丸となって戦わなければならない「敵」そのものであり、それ以上でも以下でもないものです。

「敵」はそこにこそいるのです。
それ以外はすべて「仮想敵」です。


お分かりのように、ここで扱っているテーマは、実は既に3次元世界を超えています。

先ほどの「あざなえる縄」「コイン」に例えればわかります。

戦争と平和があざなえる縄のはずもありません。
表が平和で、裏は戦争がそのコインですか?

これは、「平和」というものが、本来絶対的なものを表しているのに、それを三次元的な尺度でとらえようとすることからくる論理的な破綻です。

同様に「光」と「闇」は、この相対的な三次元世界の問題ではないことに察しが付くかと思います。

「戦争」にしても、冒頭で私が触れた「悪」にしても、よく言うような「戦争と平和」「善と悪」のような耳なじみのあるささやき掛けで、いつのまにか、シレっとこの三次元世界に流入してきていたのです。

つまり、「嘘」です。

そもそも「戦争」、「悪」は対になる対象がないほど底知れず重いのです。
それは「闇」という怪物の手あしです。
それは徹底的に消し去らねばならない存在です。


終わりに

以上、根気よくお読みになられたみなさま、お疲れさまでした。

これまでに、本シリーズで述べてきたことをかいつまむとこういうことです。

「闇」を追いかけるということは、「光」にとって当然の所為であるし、またそれは「光」にしかできない。なぜなら、「闇」自らが「闇を見る」ことはできない相談だから。「闇」に光を当てる(知る)という行為は、闇を暴き、解体し、無きものにすることである。
その「闇」というものの所在は、身近な虫けらのような存在から、果ては悪魔まで、我々の感覚器官(センサー)が「NO!」というシグナルを出すことで教えてくれている。
それは、とりもなおさず私たち自体が「光」だからである。
だから「闇」が見えているのだ。
その「闇」はいつも「戦争」を仕掛けてくる。
しかし、戦争にせよ悪にせよ、本質は、机上での「戦争と平和」「善と悪」というように相対的な二元性の事象をはるかに超えた異質なものである。
その裏に隠れている「闇」こそが我々の真の唯一の「敵」である。


幼稚な頭脳に映った幼稚なメッセージですが、もし共感される優秀な方がおられれば、さらに掘り下げて世に知らしめてほしいと思います。

自分で書き進めているうちに思ったのは、この(闇の)問題は、おそらくこの世で最も難しい、というより重要なテーマではないのか? ということです。私ごときの手に負えるものではないのは言うまでもないことですし、おかげで私自身悩ませられたので、かなり難解に思われた方もいらっしゃるでしょう。
ただ、そこにあぶり出しのように、ぼんやりと何者かの姿が浮かび上がることができれば私としては良しとしたいと思います。

一応、本稿でこのシリーズは終わりにしますが、補足として次回を設けます。
次回は、このシリーズのホントのホント的な結論、大団円を飾る?「闇の来歴」について「おまけ」「付録」的に取り上げたいと思います。「そもそもなんで闇や悪があるのか」というまたもや重いテーマです。
熱心な探究者はぜひともお読みください。

この世界の情報はほとんどが操作されています。
各人が自らの内面に問い、そこに答えを見つける事こそいよいよ重要になってきました。
ご愛読誠に感謝いたします。


ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット「光の帝国」(1954)








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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。