『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.03.23-25(68/68篇)
「怪物双生児の生涯の数場面」「ヴェイン姉妹」を読む。
「怪物双生児の生涯の数場面」は、体がくっついて生まれた双子の話。ロイドとフロイドという名の二人のうち、フロイドが「ぼく」として語っている。
「ヴェイン姉妹」は、「私」とシンシア、その妹シビルと不倫関係にあったDとの関係性が描かれている。シンシアは非科学的な、オカルト的なものを信じていて、心霊術であったり、小説の言葉を飛ばして読んでいくと(縦読み的な)死者のメッセージであると思ったりしていた。Dからシンシアが亡くなったことを聞いた「私」は、シンシアが幾度なく語っていた霊という存在に恐怖した。
シンシアのことを考えて眠れない(もちろんロマンティックな意味ではない)「私」がようやく眠り、目を覚まし、小鳥の声を聞くと、シンシアが言っていたように、そこに存在の暗示があるとして、解き明かそうとした。この話は次の引用部分で終わりを迎える。
私がいくら頑張っても意識ではなんら分離できない。あらゆるものが霞んでは、黄色い雲にあやしく包まれて、ほとんどなにひとつ、たしかな、手ざわりのある証拠を生み出しようがない。彼女の理解不能な謎々も、めめしい言い逃れも—神との合一というたわごとも、すべて―思い出が形作るのは不可思議な意味が輪のような波になった姿なのだった。そして、なにもかもが次第に黄色く霞み、微妙な幻のようになると、消えていった。(「ヴェイン姉妹」若島正 訳)
太字部分はミスではない。注釈には次のようなナボコフの言葉がある。
この短篇で語り手は、死んだ二人の女性が物語への神秘的な参与を主張するために、最終段落をアクロスティックとして使ったことに気づいていないらしい。
アクロスティックとは折句、つまり、「文章や詩の各行の先頭または末尾の文字をつなげると、ある語句になるという言葉遊び」(コトバンク)である。先ほどの引用部で太字は、「っららはしんしあよ理めーたーは輪たし次微る」である。なんのこっちゃ。
冒頭に、「私」がシンシアの死を伝えるDに出会った日は、吹雪が一週間続いた後の日曜で、「私」は散歩の途中つららの一族を眺めていたとある。「私」はつららとその影への奇妙な執着を見せるのだが、それはなぜか。そういうわけで太字に再注目すると、「っららはしんしあ」と読める。小文字であることに目をつむると、「つららはシンシア」、である。つららの描写の後、次のような描写がある。
ふたたび外に出たときには、もう音も儀式もなくもう夜の帳が下りていた。湿った雪の上のパーキング・メーターが投げかけている長い影法師、瘦せた幽霊が、奇妙に赤みを帯びていて、これは歩道の上にあるレストランの看板の黄褐色がかった赤いライトのせいらしかったが、ちょうどそのとき――そのあたりをうろつきながら、帰り道の途中で今度は運よく青いネオンでできた同じものが見つかるだろうかとぼんやり考えていた、ちょうどそのとき――一台の車がそばに止まって、わざとらしい歓声をあげながら、Dが出てきたのである。(「ヴェイン姉妹」若島正 訳)
注目したのは「パーキング・メーター」である。「っららはしんしあよ理めーたーは輪たし次微る」のダッシュと漢字に目をつむり、先の「つららはしんしあ」をのぞけば、「よりめーたーはわたししびる」である。「めーたー」、そして「しびる」。妹の名前シビル。
ということは、この謎めいた文字の羅列は、「ツララはシンシアより、メーターは私シビル」ということになるのだろう。おもしろい。
ついに、『ナボコフ全短篇』を読み終えた。長かったようで、短かったようで、どちらとも思えるような両義性が、ナボコフを読むということなのだろうか。
短編の歴史を通じてのナボコフの変化や反対に変わらないものなど、おぼろげながら感じるところもあった。たとえば初期のナボコフの「光」は液体であった。直線的であるはずの光の多くが、液体のように感じられる比喩が多用されていたような気がするが、年を経るにつれて、そのような比喩は減っていったと感じた。あるいは色ガラスを通した景色。何かを重ねることで風景や描写や出来事を複雑にし、厚みを加える方法は、ナボコフの短篇のところどころにあらわれるものだと思われる。
この日記もようやく終わりを迎えることができた。途中でショッキングな出来事もあり、頓挫しかけもしたが、なんとか終わることができた。満足のいく書き物ではなかったけれども、書かなかった自分よりはマシだと思いたい。