続かない毎日投稿、今日から本気出す←フラグ

 今日もやってしまった。
 こうして後悔するときにはすでに手遅れで、もう失ったものは戻らない。
いつだってそれは時間を奪う。しかしこれがなけれ仕事の効率が下がってしまうのもまた事実だ。それなりの決意をもってスマホに設定を施すが、いざその時になると既に私は私ではなく、一時の快楽に身をゆだねてしまう。不可逆的な濁流に押し流され、意味不明な非現実を垣間見ることすらままある。無意識のうちに人生そのものを浪費した末に得られるものといえば、尽きることのない罪悪感と全身の不快感。場合によっては筋肉の痛みも加勢して私の罪悪感に拍車をかけるのであった。実家暮らしの私には健在な両親に助けを乞うこともできるが、無意識下にある私は理性を働かせることが出来ずに終わってしまう。他者の介入はあまり期待できない。なぜなら私自身、この時ばかりは本能の手綱を握ることが叶わないのだ。そしてこの精神状態は不都合なことに他者から観測されることはなく、多くの場合は理性に基づく判断による行動であるかのように誤解されてしまう。こうなってしまえば私の愚行を止めることができる存在は事実上なくなってしまい、我に返った後の自分が私自身の愚かさを痛感するのみである。来ることがわかっている厄災をどうにも対処できていない。人類の推し進めてきた科学の発展も、これに対しては無力だ。
 人類とは己が本能や快楽に抵抗してきた生命体であるともいえる。社会性を重んじる種の生物には時々見られる光景であり、特に人類のそれは本能による快楽の抑止ではなく理性に寄与するものである。人類以外の例として蜂に起こる現象を照らせばわかりやすい。

 蜂は蟻と同じく社会性を持ち、集団が個として機能して今日まで生き残ってきた生物である。雌で構成され、その種の雄はある特定の時期にのみ発生する。大抵の場合蜂の雄は短命である。女王バチはその特定の時期に交尾を済ませて産卵、子育てを続ける。そのほかの雌(働きバチ)は雄と交尾することはなく、死ぬまで蜜の原料を集める仕事に従事する。人間社会に置き換えてみるとぞっとしないが、個としての繁殖に対する欲求ではなく、種としての存続と繁栄を選択している様は、個としての本能と種としての本能と人天秤にかけた選択のようにも見え、理性と本能の間で苦悩し耐える私たちと似たものを感じてしまう。実際、働きバチの一部が異常行動を見せ、空いている小部屋に無精卵を産み付けることがあるという。勿論その異常性は他の働きバチから排斥されるに値するものであり、その個体はその集団から追放され無精卵も女王蜂につぶされる。個人的な欲求に負ける個体も時として生じることがあるのである。

 この場合、対立しあっているのは集団と個であるのに対し私たちにあるものとは本質的に少し異なる。が、私たちの抱える葛藤との共通点も少なくないだろう。そもそも私たちの理性とは社会規範に対してのモラルや価値観に基づくものであり、私が打ちひしがれている罪悪感も社会に対する私自身の行動を案じて生じる。つまり、私の身の回りでは当たり前のように克服されている事実に由来するものであるのだ。社会の最小単位である家族内でも克服している個が存在する。個の欲求に流された働きバチのように排斥されることはないが、精神的なイニシアティブと自尊心を損なうのは、その愚行が先を見据えたうえで、マクロな視点で自身の人生を損耗させていることを無意識に自覚していることに由来するとも考えられる。蜂にとっての個と全体は人間にとっての今と将来に該当するのではないだろうか。そしてその将来は理性と本能(この場合は感性かもしれないが)によって結論付けられると私は考えるので、人とはどの生命体よりも抜きんでて自由な生き物なのかもしれない。

 しかし、この可能性は狭めることのできる理論でもある。が、それは脱線が過ぎるので別の機会に。

 

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