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「ごんぎつね」問題

 新見南吉の「ごんぎつね」にまつわる問題が、このところSNSやネット界隈を多少賑わせているのを見かけた。

 その発端なのどうかわからないが、2022年に刊行された石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の冒頭で紹介された、国語の教材としての「ごんぎつね」にまつわる問題が、子供の読解力不足が進む事例として耳目を集めたようだ。「ごんぎつね」の中では、村で行われている兵十の母の葬儀をごんが眺めるという場面があり、村の女たちが大きな鍋で何かを煮ている様子が描かれている。その場面をどう解釈するかという授業の中で、現代の小学生たちは、母親の遺体を消毒しているとか、火葬がないので母親の遺体を葬り易くしているとか、大真面目にそういう意見を交換していたというものである。著者はこのいわば常識外れの議論にショックを受け、恐るべき読解力の低下が起こっているとの問題意識をもつ。
 これは果たして、読解力の問題なのだろうか。

「何なんだろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」
 こんなことを考えながらやって来ますと、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢の人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭をさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きな鍋の中では、何かぐずぐず煮えていました。
「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう」

新美南吉「ごん狐」

 青空文庫から該当部分を引用したが、本文の描写はこれだけである。
 もちろん、ある程度の年齢以上の大人であれば、昔の村落の葬儀が村民ぐるみで協力的に行われていたことを知っているし、「鍋でぐずぐず煮る」という行為が、葬儀にあたって振る舞われる飯炊きであることは、こうした簡潔な描写からでも想像できるだろう。
 しかし、現代の小学生の常識はどうだろうか。親戚付き合い・共同体的相互扶助の希薄化した現代にあっては、昔の村落の住民が集い、互いにもてなし合って葬儀を行うという体験も、そして専ら「女たち」が集って料理を作るという観念も、どれも持っていない可能性は充分に考えられる。しかもこの長寿の時代であるから、葬儀というものさえ一度も経験したことがない小学生もいるかもしれない。大人が求める、常識とも思えるような理解に及ぶためには、そもそもそういった背景を想像できるだけの非体験的な知識(読書等)を持っていることが必要である。そのうえで想像力を働かせなければならないわけで、それが不足した状態で、極めて限られた場面について議論させるということに、そもそも無理があるのではないかという気もする。これは読解力の不足というよりも、多くの小学生にとって、過去の経験を知る機会が失われている事実を物語るのではないか。『誰が国語力を殺すのか』を全て読んだわけではないので、同書の内容自体を批判するつもりも資格もないのだが、ごんぎつねのエピソード部分だけを読んで思わされることは、子供の読解力・国語力も低下しているといえるのかもしれないが、それよりも社会状況の変化に伴う「常識」的なものの変化が、恐るべき速さで進行していることが、より大きな原因なのではないかということだ。

 最近、通勤電車の壁に表示されていた学習塾の広告にも、似たような違和感をもった。ある中学校の入試問題が紹介されていて、十以上の離島からなる鹿児島県十島村の村役場は、各々の島ではなく鹿児島市内に置かれている、その方が便利だからそうなっているが、その理由を考察せよという内容である。参考情報として、九州本土と島々を行き来するフェリーの時刻表(原則、往復週2回で、一日がかりである)に加え、それぞれの島の人口、商店数、宿泊所数と収容可能人数などのデータが示されている。要するに、各島の間も島と本土の間も、どこから行くにも宿泊せずして往復することは不可能であること、そして、どこかの島に役場を置いた場合には、宿泊所がキャパオーバーしてしまう可能性が高いことなどから、おそらく宿泊施設が多数あり、かつ大型商業施設でまとまった買い物もできるであろう鹿児島市内に行く方が島民にとっては便利だということが資料から読み取れるということかと思う。しかしこの問題なども、大人は定期的に、またはある決まった時期に役場に行ってなんやかんやの手続きをするものだ、ということを知らないと、小学生には出題の意図がピンとこないのではないかという気もする。
 もちろん、それこそ私が単に小学生を見くびっているだけであって、彼らは思っているよりも社会性や社会通念を身につけているのかもしれない。単に自分の子供の頃がナイーブであったに過ぎず、それを勝手に投影しているだけかもしれない。しかし個人的には、これらの問いかけに共通して、出題範囲外の知識や経験がないと、求められる解答にたどり着けないのではないかという疑念が拭えないのである。

 「ごんぎつね」に戻ると、先の問題から派生したのかどうか不明だが、直近のSNSにおいて、ごんぎつねが最後に兵十に撃たれて、死に至ったかどうかという議論が話題になっていた。そこでもまた、死んでいないと想像する小学生に、読解力の欠如をみて嘆くというような見解がみられた。これについては、死んだと明言されていない以上、死に至ったとは考えられないという見解が多く出されたということをとらえて、その見解は行間を読む力を欠くものだと懸念する声があったようだ。また、「死んだと考えられない」ではなく、「死んだとも死んでいないともどちらとも言い切れない」というのが正しい解釈であるとの指摘もあり、揚げ足取り気味ではあるものの、正確性を追求するなら妥当な見解といえる。
 なお、実際のアンケート結果を発見できていないので、上述の私の見解には何の根拠もないし、また、当該アンケートは大学生が対象だったという話もあり、もしそうであるとすれば、本記事前半で書いた葬儀の場面と混乱してした情報ではないかとも思える。
 ちなみに「ごんぎつね」の該当部分は以下のようになっている。

 兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

新美南吉「ごん狐」

 ちなみに自分の記憶をたどれば、幼少期にごんぎつねの話を読んだとき、ラストについては特に疑いもなく、ごんが死んだという理解をしていたように思う。「目をつぶったままうなずく」というのがごんの今際の際の表現であり、「ばたりと銃をとり落とす」という描写が、兵十の絶望と悲哀の表現になっていると素直に受け取ったのだと思われる。

 ところで、ごんが生きているという解釈を行ってしまう原因として、現在のアニメ・漫画の物語において、死を匂わせながら後で復活して来るといった「あるある展開」の影響であるとの見解や、それとも関連して、生きていて欲しいという願望が意見に反映されたものだとする見解などがみられる。
 ごんの生死については、生きているという推論があっても、特に読解力の問題に帰することでもないような気はする。ただそのなかに、現代の思考様式というようなものが典型的にあらわれていることが興味深い。つまり悲哀としての死を深く味わうということよりも、表現の細部や多少の矛盾は無視してでも、ポジティブな生をまっとうすべきだという、いわば無理押しの生への願望が見え隠れしているように思われる。そこには死そのものを忌避する感情もあるのだろうか。

 そういうところに若年層の読解力の欠如を感じるというのであれば、それはそうなのかもしれない。しかし個人的には、子供でなくても、他人の感情を推し量ることができない人はたくさんいて、しかも年々増えているような気がしている。自分の周囲から推し量っているだけなので、世間全体ではそうではないのかもしれないが、子供の読解力に問題が出ているのが事実だというならば、それはそもそも教育者たる大人の側に、同様の現象が起こっていることの証左ではないかというくらいは疑ってもよさそうだ。我々は他人事のように自分を見ぬふりをして、子供に八つ当たりをしているだけではないか、反省する必要があるように思える。

 なお、本題とははずれるが、この機会に久々に「ごんぎつね」という作品を読み直し、また若干調べてみて、以下のサイトが興味深くわかりやすい解説をしていた。

 ごんと兵十のすれ違いから恋愛物語を連想するというのは、半信半疑ではあるけれども、そうかもしれないとも思える。もちろん恋愛における男女のすれ違いは人類永遠の課題だが、本記事の趣旨から大人と子供の関係性を考えているうちに、実はごんぎつね自体が、四角四面の大人と未成熟な子供との心のすれ違いを描いているようにさえ思えてきたから不思議なものだ。



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