勝本清一郎の森鷗外論
近代文学者について少しずつ掘り下げていきたいと思っていて、森鷗外はその対象の一人である。評論家・文学史家の勝本清一郎に『近代文学ノート』という著作があって、その第3巻に収められている一連の森鷗外論を興味深く読んでいたが、とりあえず以下に要点をメモしておくことにした。
「世界観芸術の屈折」
日本音楽は、鳥の声や渓流や雲や霧の世界に悟り切っていき、西洋音楽にみえる「人間臭さ」がみられない。勝本は、西欧的教養を身につけたはずの鷗外の作品に、これと同様の「人間臭さ」の排除という傾向をみている。例えば「わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる『自然』を尊重する念を発した。」という「歴史其儘と歴史離れ」の鷗外の表白を引用して、西欧の芸術が自然と峻厳な深さで対立しているのに対し、日本の芸術が自然の断片あるいは自然そのままを芸術の一面として鑑賞していることを指摘する。
鷗外を評価する軸のひとつに、晩年の史伝ものをどう理解するかという重大問題があるが、勝本は史伝ものを必ずしも高く評価しない。
「雁」
鷗外の「雁」を批評しつつ、クラウゼヴィッツ「戦争論」の鷗外への影響を指摘。「戦争論」は防御的戦争の書であり、鷗外はそれを正しく理解して「防衛的な生活態度」に反映させているという。
鷗外における「防衛的な生活態度」という指摘は面白く、その道筋から過去につながって同時代を批判していると述べる。
これらの点は重要な気がするので、後日もう少し深い考察を期したい。