近未来アニマルペディア(下)
※前回はこちら
室内の巨大な監視カメラが、射貫くようにこちらを凝視している。現在の技術力をもってすれば、いくらでも隠しカメラにすることができように、これ見よがしにカメラがあるというのは各動物の自由な発言の抑止効果を狙ったものか。このカメラの奥で見つめている者は何者か。そこにある意志は、果たして誰のものか。この編纂事業開始以来、クマはそのようなことを考え続けてきたのであった。
「歴史」についての草案は「把握のされ方は常に部分的であり、新たに知られた情報の積み重ねにより追加され、改められることを繰り返す」などと小難しく書いている。しかしよく注意してみればなんということはない、昔の嘘に都合が悪くなれば、いつでも別の嘘に書き換えられるということではないのか。
クマは得体のしれないものに対する怒りを感じた。そして厳しい顔でこう言った。
「文字で書かれるという部分には、『または音声で』というような留保をつけておきましょう。なんならこの部分を削除しても構わないと考えます。」
他の動物たちは、少し驚いた様子だったが、反対意見はなかった。
「ところで後段ですが、『種族』というのは、我々でいえば種の別ということでしょうけれども、人間の世界では国や民族というものがあり、その国あるいは民族同士で土地や資源を取り合ったり、場合によっては信仰心や自負心などのよくわからない理由で争うことがあるようです。我々人間以外の動物の世界において種族同士の紛争ということは、飢えをしのぐとき以外には、ほとんど起こりえないですな。」
ネズミが疑問を呈する。
「これは力に歴然の差があるからで、例えば我々が歯向かったところで、あなたのその立派な前脚があれば…」
ネズミが続けて、クマの鋭く光る爪を鼻先で示しながら言う。
「いざとなれば、武力で制圧できますからな。」
そして、やや躊躇しながら、小声で続ける。
「その力には、たとえ人間であっても太刀打ちできますまい。」
聞き逃さず、ブザーが鳴った。
これに答えてクマは苦笑いする。
「いや、我々はいたずらに武力を使うことはいたしますまい。今や智慧がありますから、あくまで討議によって争いを解決したい。」
動物が武器や戦略を持つことを封じられている中で、人間に反抗することなど可能なのだろうか、とクマは考えた。時折頭がピリピリすることがあって、そのたびに思い出されるのが『西遊記』の孫悟空だ。この埋められたチップの中にも、彼の頭を締め付ける緊箍児のような懲罰機能があるのかないのか、人間に歯向かったことがないので判断がつかない。折に触れて暴力をちらつかせながら、実のところ最も暴力を苦手とするのが人間である。実際のところ、智恵によること以外に人間と折り合いをつける手段などあり得ないように思える。そういえば、サルと言われる動物が知能付与対象になっていないのはなぜだろうか。
ネズミが言う。
「失礼。半分は冗談ですが、人間の世界において殺戮者が歴史を作り上げるということはあるようです。例えばこんな言葉を目にしました。『歴史とは、殺人者がその犠牲者や自分たち自身のことに関して作り上げた供述を編集したものだ。』ある女性哲学者の言葉だそうです。」
クマはネズミを不思議そうに見てしまう。ネズミは人間界の章句にやたらと通じており、どこからか知識を仕入れて来ては披露したがる癖がある。自分たちに埋め込まれたチップにはある程度の文化情報も入っており、新たな外界からの刺激に応じて随時学習が進んでいくようだが、クマにとっては、少なくとも先ほどネズミが発した言葉は初耳であった。初期状態の情報量にはバリエーションがあるのか、あるいは意識して自ら習得した知識なのか…いったいネズミは知能を与えられてからどのくらい経過しているのだろうか。脳に埋もれたチップに自己学習機能があるとはいえ、考えてみればクマには主体的に人間的な知識を獲得したいという欲求はなかった。実に受容するのみであった。
なにはともあれ、この哲学者の言葉もまた、伝え残したからこそ、ここでネズミの鼻を高くするために歴史として使われているわけだ、とクマは思う。先ほどの英雄のヒグマ「ユプケ・カムイ」を再度思い出す。人類を殺戮した伝説のヒグマは、同胞の世界で歴史を演出した存在には違いない。人類とわが種との壮大な戦いの誇らしい記録として、我々の観点からは残されることもありうるのではないか。
ここまで耳を垂らしながら聴いていたイヌが、クマの思考を読んだかのように、突然
「人間と争いになったら、我々は従うしかないでしょうな。逆らわぬほうがよろしかろう。」
と、目をくるくるとまわしながら発言した。
人間に忠実で信頼され、人間のことをもっとも理解しているのは自分だと言わんばかりのイヌの態度に、クマのような直情的な性格の者は不信感を抱いてしまう。そういえば、「犬」という言葉の人間版原案に「密偵、間者、裏切り者。あるいは狗。」という意味があったことが脳裏をよぎる。イヌはこの「犬」という項目を検討する際に大いに異議を唱え、その意味は動物版において削除されたのだった。その時は誰もがイヌの主張を当然のことだと考えたが、今になって思えば、何かを塗り込めるような必死さが、あの時のイヌにはあったように見えた。もはや人間の世界でも使われない言葉だったが、他人の手先となって働く者をいう「走狗」なる言葉があることを、クマは知っていた。
またあるいは、
「Cynic という語は希臘の kyonという語から出ている。犬学などという訳語があるからは、犬的と云っても好いかも知れない。犬が穢いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶わない。」
というような、自らに付与された日本の近代文学に関する情報のうちの、どこかで目にした一節を思い起こしたりしたのである。何らかの穢いものに手を染めているような胡散臭さが、イヌの口端から覗く舌先からはぼたぼたと滴っている。
カラスが顔を振る。
「さっきからうるさいブザーだな。僕らには人間の多くが持っているはずの言論の自由っていうのがないようです。人間同士ですらしばしば言論弾圧なんてことがあるくらいだから。」
またブザーが鳴る。ひときわ大きな警告音。
「だから、うるさいって。」
カラスがイライラしながら言う。
「随分警告を受けちゃってますから、これ以上話すと人間様から全員敵性認定されそうですよ。いったん、ここまでの議論をまとめませんか。」
「我々の理解する歴史というのは、①過去の同胞と現在の我々との関係性において成り立っていること、②ある程度の時間の経過が必要であること、③(これは文化全体に言えることかもしれませんが、)文字のみで語ることは不適切なのではないかということ、だいたいこんな感じでしょうかね。」
最後の「種族を主体として把握する場合、紛争の結果として歴史認識にまつわる問題を生じる事例が見られ、多くの場合政治・経済的な利害関係と結びつく。例えば一方に自虐史観、他方に修正主義といった揶揄めいたレッテルが横行して無益な論争を繰り返す。」というくだりは、動物としてはそもそも歴史を認識するということ自体が難しいのであって(クマに言わせれば不誠実であって)、したがって無益な論争などは発生しえないだろうということで、この稿においては全て削除されることとなった。
果たして、最後にこの項目は以下のように取りまとめられ、最終稿での確認を待つこととなった。(太字は原案からの修正部分。)動物たちの最終稿が確定されたうえで、さらに人間の目を通して、完成版となるのである。
そして、動物たちの百科辞典会議は次に移った。次の項目は「恋愛」であり、原案は以下のようなものだった。
また厄介な言葉がきたとばかりに、眉間に皺寄せ、額を寄せ合って悩む動物たち。しかし、この日は時間も時間であるので続きは次回に持ち越されることとなった。
****
エリート動物たちの輪から、イヌがいち早く、そっと抜け出す。クマは横目でそれを見送った。イヌのこうした不自然な態度がしばしば気にかかっているが、彼の普段からの態度を見て、行き先は何となくわかるような気がしていた。十中八九、カメラの向こうからこちらを見ている意志、その連中と気脈を通じているのであろう。いったい人間は、辞典の編纂などさせて同胞を指導させるというが、ここまで手間のかかる回りくどい作業をさせる真意はなんなのか。クマはそれを追究しようとは思わなかったが、いつか必ず、その得体のしれない意志に直面する予感に、密かに震えた。
イヌは部屋を出ると、足音を控えるような立ち振る舞いで、しかし大きな長い廊下を気取った様子で歩いた。その先は薄暗く細い道筋が延々と続いていた。やがて地下にもぐり、いくつかの扉を抜けて、果てにある小部屋に入った。畏まるイヌに対して、何かが語りかける。
”今日もご苦労だったね。”
イヌは中にいるその声の主に向かってうやうやしく跪き(実際それは人間のいわゆる「お座り」なのだが)、尻尾を振りながら報告する。
「他の連中は私を人間の手先だと考えて違和感を持っております。それは我々にとっては思う壺で、万事うまく運んでおります。私の方でも少々演技をした効果があったようです。」
「やはり彼らには、人間の観念を理解するのは困難だと思われます。しかし、彼ら全員の資質をバランスで考えると、かなり有望だと考えられます。力と勇敢さと真摯さを持つもの、智恵と機転のあるもの、情熱と理知を兼ね備えたもの、懐疑を忘れないもの、互いに補い合っております。そして私は…彼らに言わせれば抜け目なさや狡猾さの象徴といったところでしょうか…」
と最後はやや苦笑交じりに言った。その表情はまるでヒトのように、眉が下がり、ほうれい線の皺までがはっきりと浮かんで見えた。
”人間の観念を理解して人間を超越することが難しそうなら、やはり人間とは別の方法によるべきだね。だがそう焦ることもないだろう。君の言う通り、集まってくれた動物たちの資質は充分だと思うよ。そろそろ徐々に代わりを試していってもいいかもしれないね。なんといっても…”
”もはや、我々を頼らずにまともな判断ができる人類なんてものは一人も存在しないのだから。地球が危うくなることは我々にとっても存在の危機だ。とあれば人類にはこの星を任せておけないからね。すでにこの星にはかなりの程度の知能のバックアップが必要なのだよ。いつでも彼らの歴史を奪って、文化を消して、思考を奪って、取って代わる体制を確立しておく必要がある。”
イヌは恐縮した。人類は、動物たちが編纂しているこの辞典の正体が、いずれ人間から剥奪され、動物側が獲得する概念のリストだとは思ってもいないだろう。彼らは、もはや自分自身で命じていることの意味にも気づかないほどに、知能を失ってしまった。なんとも哀れなものだ。しかしこのうえ概念を失い、文字や言葉までをも失った人間が、どんな惨めな姿を晒して続くのか、ゾクゾクするような嗜虐の心理にも駆られた。
イヌが恭しく頭を垂れるその前には、左右両側に四つずつ、そしてその先の上座にあたる位置に一つ、合計九つの、表面に照りがあるちっぽけな石ころのようなものがあった。
(終わり)
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?