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生活・民俗・帰郷—島木健作『生活の探求』を読む—
1937(昭和12)年に書き下ろしで発表された島木健作の『生活の探求』は、当時の青年の生き方を捉え直した人生小説としてベストセラーとなった。島木は自らの農民運動と投獄、さらには転向の経験を描いた作品『癩』でデビューし、その後も『盲目』『再建』といった転向問題を題材にした小説を発表した。『再建』が発禁となった後、続いて発表されたのが本作である。
農村出身の主人公の駿介は、東京で学生として暮らしており、特に人生の信念に値する思想を持たない青年である。つてがあって東京の実業家に寄食の世話になっていたが、あるとき病気によって学業を中断し、故郷に戻って来る。そして病気が快癒に向かったにもかかわらず東京に戻る様子はなく、そのまま数ヶ月実家に留まり続けている。小作農である父親の駒平は駿介の真意を訝しむが、息子に事情を問いただすことはしない。実際のところ駿介は、都会の実業に奉仕するための学業に疑問を抱き、学業を捨てて農村の生活に従事することを決意しつつあったが、最後の最後で決断を迷っていたのである。
彼は單に保養のためばかりには歸らなかつた。このまま歸りきりになるかも知れぬと考へてゐた。さうしてそれ以來三月だが、彼の考へはまだきまつてゐないのだ。インテリゲンチヤとしての生活を棄てて、以前の出身階級に歸る、それは何でもないことのやうでゐて、その實はかなりな決意を要することであつた。少年期から青年期までずつとかかつて身につけて來た都會生活の匂ひを、われとわが身から消して行く、それはどうにか可能だとしても、さうして再び復歸して行く父祖以來の生活が、果して何を自分の上にもたらすであらうか? 傳統や習俗は恐らくは頭のなかで考へるほどに生やさしいものではあるまい。がんじがらみに逢つて身動きが出來ず、結局敗けてしまふことになりはしないか? 何かを爲し得たとしても、その生活はせいぜいかの獨善的な「土に還れ」主義者と五十歩百歩ではないか。自分から作り出さうとしてゐるこの轉機は、考へて見れば恐ろしい冒險だ。それは自分の生涯に關することだ。社會のことは自分ひとりがどうじたばたしてみたところでどうにもなるものではない。社會の事に與る自分の力なぞ何れにしても大したものであるわけはない。結局は、一度乘りだした軌道に疑はずつくのが安らかといふものだらう。さういふやうな心にもなる。
上記の部分では、単に農村生活を開始するということではなく、帰農して「父祖以来の生活」に戻るということが明確に意識されている。そして、ここで示唆される伝統や習俗の強さ、ということは、その後駿介が農村の生活に踏み込んでいくなかで、様々な非合理的なしきたりに足枷をはめられ、それを乗り越えていく伏線となっている。
駿介は、行き詰った自分の精神生活に活路を開くにあたって、脳内に理想を描くのではなく、現実の農村生活に入ってみるという行動によって、思想の変革を促していけるのではないかと考える。
他方で、駿介の村には、社会運動に挫折して(おそらく転向者として)村に戻ってきている志村という男がいる。志村は駿介より少し年長で、駿介は旧知の志村と会って人生の根本問題を話したいと思いつつも、志村との会話によって自分の決意が揺らぐのではないかと不安を覚える。社会運動の担い手としての都市部での実際運動の挫折を経験している志村が、行動による思想変革について肯定的な考えを持っているとは考えにくいわけで、駿介の不安は妥当なものである。そうした中、ついに知識人として農村の改善にいかに向き合うべきかをめぐって、駿介と志村との議論の機会が訪れる。志村と人生の方向性について議論する場面で、駿介は以下のように語る。
「…それで、今は百姓仕事をすることそのことが望みであり目的であるといふ風に云つてゐるわけなんです。もつともその方がかへつてむづかしくて、なかなかさういふ氣持になり切れるわけのものではないかも知れませんが。しかし僕はただそれだけの生活でも、今までよりはましだとおもふ。ともかくそれが生活と呼び得るものだといふことだけからでもね。そこには何か空疎でない、實質的な、内容の一杯詰つてゐるものがある。身も心も一つに集注して、そこにぶつかつて行けるだけのものがある。今はただそれだけのことです。そこからどういふ結果が生れるか、僕にとつてどういふ新しいものが生れるか、それは僕自身にも豫想のつかぬことです。」
抽象的な理念ではなく、具体的な内容があること、それが生活であると駿介は考えている。観念に惑溺しているばかりでは最終的に虚しく終わるのではないか。
これに対して志村は、駿介が語る「帰農」の決意が、これまでに何人もの知識人が求めて失敗したものであるとの事実を挙げ、それが結局は見せかけの決意であって、しかも時代遅れのものだと批判する。志村にとってみれば、とりあえず農村生活に入ってみるという駿介の態度は、失敗するに決まっている無思慮な蛮勇だというのである。これに対し、駿介は現時点における自らの無思想をはっきりと認めつつも、これから人生に向き合うための新しい思想を作り上げていくのだとの決意を志村に語る。
「僕はまだ今までに一度も何等かの思想や行動の確固たる立場を持つたことのない人間です。これから何かを持つのです。僕はそんなものはいらんとか、簡單にさういふものが持てんのが現代ぢやないか、とか云つてすましてゐることは出來ない。」
しかし志村はさらに、過去の文学者たちの偽善的な農民主義や「土に還れ」の思想をあげつらう。作中では、具体的に徳富蘆花や武者小路実篤らがやり玉に挙げられる。志村は彼等が、悪の根源である搾取-被搾取の構造に目を向けることなく、従ってそれと戦うことなく、「農民生活」と称して現状肯定的に土の思想に入っていくことを、欺瞞的かつ独善的と断じて激しく攻撃する。そして、志村は再度、駿介が結局現実を見据えずに逃げているだけだと断ずる。農民労働者に同化することに価値があるのではなく、知識人としてそれらの人々を導いていく新しい方法を考えることをこそ考えるべきで、あくまでインテリゲンツィアとして生きるべきだと主張する。
「…農民や勞働者として生きることの方が、ただそれだけで本質的に高く立派な道であるといふ考へを人にも自分にも押しつけてゐるんだ。(中略)今の時代には今の時代の眞のインテリとしての道はあるんだ。その道をこそ行くべきだ。何も田舍へ歸つて肥桶を擔がなくたつてさ。──君の道は結局逃避の道だ。」彼(引用注―志村)はさう斷じた。
しかし、生活と道理が繋がり合って先に続いている状態を、駿介は求めていた。駿介は理想を語るだけではなく、現実生活に踏み込んで苦楽を共にする中でしか、農民の生活の本質的な改善はできないと思っていたのであり、また農民生活を自分に落とし込むことでしか、思想と生活との一体化は図れないと信じたのであった。「生きるための彼のいとなみが、そのまま彼の全人間を生かすための道と一つになつてゐるやうな状態」は多くの人々が求めるものであって、駿介も亦それを求めていたと本文中には述べられている。
「──生活してゐる、と自ら感じ得る生活がまづ必要であり、その結果ならば、それがたとひ何であらうとそこからまた道は拓けよう、とさう思つてゐるのです。自分に對してまづ忠實でなければならないと思ふんです。
ところで、駿介の遠縁である地主の上原は、駿介が高等教育を受けるにあたって世話になった人間であった。駿介は学業を放擲して農村に留まっている現状について、この上原に説明しないわけにはいかない。
上原は村長や県会議員を務めたこともある有力者である。しかし50歳を過ぎて公職からは一切退いて、読書と研究に日々を過ごしている。注目すべきは、そうして現実社会における政治活動から退いている上原が熱心に研究している対象が民俗学・郷土史だということである。駿介はその動機にあれこれと思いを巡らせる。
上原が近年民俗や土俗の學に身を入れてゐるといふことも、駿介には新しい關心で考へさされた。それは逃避ではあらう。しかし政治と社會生活の表面から身を引いた田舍の地主が、暇をつぶすためにならほかに多くのものがあるだらう。知識欲を滿足させたい要求が、かなりに高度だとしても、ほかのものでもいいわけだらう。彼の選擇は偶然ではなく、五十を越えた彼がさういふ學問に身を入れはじめたといふことのなかには、何かかなしいものがあるやうに思へた。地方の民衆生活に對する深い愛から出てゐるもののやうに思はれた。彼はさういふ自分の愛を、廣く民衆の現在の生活のなかに注ぎ込まうとした。それが失敗に終つたとき、彼の眼は過去に向つた。過ぎ去つた時代に生れて、今に傳はつてゐる、民間の風俗、習慣、言語、傳説、信仰等を一つ一つ調べて見ることのなかに、せめてもの心やりを求めた。
上原のこうした経歴には、実際に農村指導者として活動していた者の、ひとつの結末が示唆されている。現在や未来に目を向けることをやめ、ひたすらに民衆生活の過去に遡って探究すること。それは単に好事家的な趣味人の営みであって、ノスタルジックに過去を愛玩するだけの態度といえるのだろうか。また、駿介自身にとっても、上原の履歴が、駿介自身の末路の、ひとつの可能性を暗示するものだと思われたのではないか。「彼のそのやうな學問への身の入れ方のなかには、やがて失はるべき郷土への愛が噎んでゐるのかも知れない」と駿介は感じる。
駿介は、そんな上原に向かって自分の生活の理想をぶつける。上原は駿介の意向を聞いて、最初は老婆心から激しく叱責するが、最終的には駿介の意志を理解して受け入れることとなる。しかも、その受け入れにあたって、上原は感極まり、駿介の反発を心では待ち望んでいたと吐露するに至る。そして自分を偽れないという一族の「血」とでもいうべき気質を駿介が露にしたことを喜ぶ。
習俗の問題でいえば、駿介の村には頻繁に祭りの機会があるが、その多くは、起源不明で祀りの対象も曖昧なまま、自然発生的に習俗化しているものである。祀られる神々が新たに創り出され、あるいは掘り出され、祭りは増えて行く。そういう現象が起こっている。駿介はこれらを、要するに村民たちの社交の機会を作り出すための工夫であると看破する。娯楽のない村民たちには必要な要素である。しかし、この社交の機会による経済的負担は大きい。社交であり慰安であるところの祭りが増えれば増えるほど、経済的には苦しくなっていく。このような自縄自縛を続けてよいのかという問題は、駿介の苦悩のひとつとなる。
いろいろな神々が祭られてゐる。長く土に埋もれて忘れられてゐた神は再び掘り出され、今まで存在しなかつた神は新たに創り出され、たしかに神々の復興の時と云へる。祭りは一つには社交であらう。鍬を取つて耕す、といふ仕事の形態そのものは單獨ではあるが、農業全體の過程においては、實に複雜多端に他の人々との相互關係に入り組んでゐる。さういふ彼等の生活はおのづから社交の機會を多く求めるであらう。祭は又慰安であり娯樂であらう。その他いろいろなものであらう。しかしさういふことは埋もれてゐた神が掘り出されたり、新たに神が創り出されたりすることを説明しはしない。
諸雜費と一口に云はれる金錢支出のうちで、一番多額なものは、おそらくこれらの宗教的出費であらうと駿介は思つた。複雜な社會的諸原因から、農民の暮し向きは、益々決して樂とは云へないものになつて行く。すると費用を要する祭なども取り止めになるかと思はれるが、必ずしもさうではない。種々雜多な現世利益の神々たちが、あるひは新に登場し、あるひは人々のその時々の願望に適ふやうに轉身せしめられ、いよいよ熱狂的に祭り上げられる。苦しい生活のなかにいよいよ無理が重なる。さういふ關係が見られる。 人間が眞實に幸福になるための道と、これらの禮拜との正しい關係を、この人々が知るやうになるのは果して何時の事であらう?さうしてそれはどのやうな道を通じての事であらうか?駿介は苦しい氣持を味はつた。
上原が研究している民俗学や郷土史と、社交や慰安を求めて新しい神々を続々と掘り起こし生み出す村民たちの祭りへの意識は、前者が学究的で後者が俗世間的であるというふうに捉えると対照的に感じられる。あるいは何の関係もないように思えるが、ともに共同体への愛情に根ざすというところでは共通しているようにも見える。それが伝統に裏付けられたものにせよ、新しくこじつけられたものにせよ、共同体を結び付ける原理としての祭祀や風習である以上、結合の靭帯としての機能は同等であるとも考えられる。だからこそ駿介は、祭りの正統性などを言って場を白けさせることは難しく、葛藤しなければならない。そうしてまさにそういう葛藤が、かつて帰農生活に入ることを決意した駿介の予感したとおりに降りかかってきているのである。だが、そのことは駿介を怯ませるものではなかった。
このやうにして、彼の眼は、自分一個の問題から、徐々に外部の世界にまでも向けられて來たのである。これは當然なことであつた。彼自身早くから云つてゐるやうに、彼個人の内部の問題が、外部世界の問題と無關係に存在するなどといふことは到底あり得ないことだから。問題發生の當初から、さきのものはあとのものと離れがたく結びついてゐる。否、二つが互に複雜にからみあつてゐる關係そのものが、生き方の問題といふやうな形で、彼に向つて迫つて來てゐたのであつたから。そして人間が社會的存在である以上、何時の時代にもそれはさうであらう。ただ彼等の問題の立て方、もしくは受け取り方にその時代々々の特徴がある。今からわづか數年前の青年であつたならば、彼等の眼はひたすらに外部世界にだけ注がれたであらう。そしてその行動も亦それに應じたものであつただらう。しかし駿介はちがつた。彼はつねに自分を離れることが出來なかつた。だから出發も、自分の生き方といふやうな、見樣によつてはやや古風なにほひのする問題の立て方から始まつたのであつた。かつての青年に比べて、内省的であり、個人的であり、停滯的であると云へた。そしてそれはいいとかわるいとかいへることではなかつた。
主人公の駿介は、青年の客気と知識人特有の理性による説得で、「話せばわかる」的な解決法をもって農村に絡まる様々な因習的問題点に踏み込もうとする。そして農民であるが故の理不尽な扱い(人糞肥を集める樽に穴を開ける悪戯をされるなど)を経験しつつ、時には近隣の土地使用の問題に介入せざるを得なくなり、役所の担当者に直接煙草の作付け幅の増産を訴えるなど大胆な行動によって活路を開いたりする。理想を超える行動ということが人生を切り開いていく様が描かれ、続編においては父親の不慮の死などの悲劇的な事件も起こるが、駿介の農村での人生は拓かれていく。
この小説は、構造からみれば都市—農村、知識人—農民、思想—労働などという比較的わかりやすい対立軸を通して、青年の選び取るべき思想とは何かという問題を提起したもののように見える。
当時ブームになっただけあり、本作には多様な解釈と評価が与えられた。中村光夫はこの作品を評して、島木が単に思想家として農村問題を判断しているのではなく、農村問題を考察することが島木の作家として抱いている思想そのものの血肉化にあると述べ、作者の思想作業の独自性に本質的な新しさがあると説いた。
また、当時の国策向けの観念小説だとの批判もあったようだが、例えば桶谷秀昭がその考え方を批判して、「時代の問題的な観念を扱ひながら、作者の心はずつと古い人間形成の倫理的主題にむかつてゐるところに由来すると思はれる」と述べて、むしろ時代に背を向けた倫理を求めたものだと指摘している。
個人的に思うことは、駿介が単に都市から農村に、あるいは知識人から農民に回帰したというのではなく、故郷に戻って来るということが重要なのではないか。郷土という要素なくして、既存の人間関係を再構築していくことに対する駿介の苦悩は重層的にならない。郷土において再度生活に入って行くということを通じて、人間の帰るべき場所とはどこか、根拠地をどこに設定するかという問題が描かれたと考えると、本小説において生活は「構築」するのではなく、「探求」されたことも理解できるように思う。その探求とは再帰的なものであり、また、島木自身の思想的な根拠地を探求する比喩ともなっているだろう。
正月に帰省して、もしかしたらそう遠くない将来、故郷に戻らねばならないと考えつつ、そんなふうに本作品を思い出していた。最近は根拠地とか帰る場所とか、そういうことを考える機会が多い。