見出し画像

見えないものを知りうる力

 以前に比べれば職場における残業文化はずいぶんと廃れている。残業をしないことが推奨されるのは有難いが、単純に労働時間が減っただけで、効率が上がったとは思えない。結局は必要な業務の何かを切り捨てているにすぎず、クオリティは下がって行くばかりである。それでも忙しいときには残業やむなしという日が続き、集中力維持に長時間エネルギーを使うため、余暇時間は眠くて研究どころではない。悪い頭がますます悪くなった気がするので、いっそ何もしない方がましだ。そういう言い訳じみた生活をしている。昨日も身体が休息を欲することしきりで、知らず知らずに寝てしまい、しようと思ったことが全くできなかった。

 先日など街を歩いていて、異様に体が重苦しく、まるでなにかに乗っかられて操縦されているような気分で、「疲れる」というのは「憑かれる」ことだというのを得心した。なにに一体憑かれているのか。都会の喧騒のなかにも、見えない隙間に怪異のようなものが細々と暮らしていて、時折人に取り憑いて疲れさせるのだろうか。そうだとすれば怪異も時代に合わせて進化して、うまく都市の進歩に合わせて形態を変えることによって生きのびているのだろうか。私は大都市が好きなわけではない。気持ちは大自然の中で暮らしたいが、残念ながら自分の生活形態はすっかり都市向きにカスタマイズされてしまった。エネルギーがないのでひとつの街のなかで、新しい刺激もあまり取り入れることなく、狭い移動範囲で過ごすのが自分に適している。

 しかしそんな狭い範囲とはいえ、10年近くも暮らしていると、街の姿がどんどん変わって行くのを目の当たりにして、なんとなくノスタルジックな気持ちにもなる。大通りのパチンコ屋がいつの間にかフィットネスになっていたし、近所にはケンタッキーフライドチキンの新店舗ができていた。パチンコ屋に行く習慣はなく興味もないのだが、うるさくて埃っぽいアンダーグラウンドの世界から這い出て来て、みんな明るく健康を増進しましょうという時代なのだと考えると、いいことなのになにか悪いような、座りの悪さを感じる。暗くしてても仕方ない、明るくいきましょう、と多くの人が言う。それなのにこの世相は全く明るくもならない。カラ元気を伴う誤った能天気が支配しているような気がする。皆さん、カラ元気という名の新しい種類の怪異に取り憑かれて、疲れてはいないか。そんなことを云いたい気分になってくる。カラ元気っていうやつは健康志向で一生懸命にトレーニング器具を回転させる人に取り憑いて、その人から見えない排気のようなものが出てきて、それがふわふわと漂って街行く人々のマイナス気分と混じって邪気が産まれ、新たな疲れの怪異が形成されていく、なんてことを妄想してしまう。嘘くさい明るさに対する違和感は、ある人にはあると思うが、自分の思考が天邪鬼でひねくれているだけだろうか。しかし自分にもそういう偽りの明るさが取り憑いていると感じる時もあり、一体本来の自分がどこにあるのかわからなくなってくる。

 自分とはなにか、ということを考えたことのない人は少ないと思われる。私は理知的ではなく情緒的なのであるが、それにしても理知で理解しようとすることは多い。自分はいったい何なのかということについて、理性によって突き止めていこうとする傾向がある。人間は知性や悟性の発達とともに、肉体と思考の分裂に悩み、思考のほうに自我とか自意識とかいう名前をつけてさらに悩みを深くしている。

 「人間はどこから来てどこへ向かうものか」という問いは現代においてありふれた問いのように思える。流行音楽の歌詞、文学作品をはじめとして、アニメやゲームに至るまで繰り返しモチーフになっていて、珍しくもない。しかし、この問いがあらゆる場面で繰り返されるのは、これまで明確な答えが出されたことがないためだ。それはあまりにも漠然とした問いであり、空間的な意味なのか時間的な意味なのか、あるいは領域的な制限があるのか、集団の話なのか個人レベルの話なのか、全て曖昧であるからだ。すなわちこの問いに答えるためには、答弁者が自らその質問の範囲を定義して、一呼吸おいてから回答しなければならない性質のものだ。

 旅行先で「どちらからお越しですか」と聞かれることはしばしばある。答えに一瞬躊躇して「自分はどこから来たのだろうか」と問いを自分の中で反芻してしまうことがある。多くの場合、現住所の「東京からです」と答えることになるが、なにか違和感がある。自分は確かに現在東京の住人ではあるが、果たして本当に東京から来たといえるのだろうか。多くの場合「どこから来たか」という問いは誰もが容易に答えられるとの想定で成り立つ、単なるきっかけあるいは場つなぎの会話であって、尋ねる側も深い考慮は求めていないと思うが、「どちらからお越しですか」の中には「お国(故郷)はどちらですか」という含意もありそうな気も一瞬してしまう。多くの場合質問者は旅行先の地元の住民なので、そのほうが互いの地元の特質を語り合い、あるいは言葉や風習の違いなどが浮き彫りになって、会話が膨らみそうな気がする。

 「人間に知覚できぬ何か」を認識する試みは様々な領域で、様々なパターンで行われてきた。そもそも学問の目的が、もやもやした概念をはっきりさせたいという人間の根源的ともいえる欲求から発するものだとするならば、見えないものを可視化するということは学問の力の働きの宿命であるが、それを果たして可視化することで、憑かなくてもよいものが現れて来て、取り憑かれて自分に疲れを及ぼさないだろうか。やはり疲れて憑かれているようだ。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?