見出し画像

右手の親指と習慣

 原因がわからないが、少し前から右手の親指が痛んでいる。第一関節が疲労しているような痛みで、力が入らない時がある。仕方なく右手を保護するために左手を使うようにしている。左手で歯を磨いていると、思ったよりもずっと、思ったように滑らかにはいかない。歯ブラシは口腔内で頬っぺたの裏側や歯茎の下など思わぬ場所にぶつかり、力加減がわからないのでへんに歯にブラシを押し付けてしまって全然磨けていなかったり、狙った隙間にブラシの毛先が入って行かずに、腕の角度もヘンな形になったりして、もどかしいことこの上ない。数十年間、歯磨きを右腕にだけ任せてきたということの代償がこの結果である。人間がいかに習慣というものに身を任せており、いざという時、自分のやり方が壊されたとき、変えねばならない時に、対応がいかに難しいかということを考えさせられる。

 このように、我々は知らないうちに自分で自分のルールを定めてしまっている。それは習慣ということのできるものだが、ある意味では自分を縛りつける羈束であり、自分の中に暗黙に作り出してしまった権威でもある。しかし、ことが単に自分の身辺生活に留まるのならば、とりあえず自分一個の不便さの問題として片づけることはできるであろうけれども、これが社会生活における習慣ということならどうだろうか。いつものルートで出勤すること、いつものルーチンワークで一日を終えること、いつもの人間関係に馴れきっていることが、ある日何らかの外的な作用により崩れてしまったら、我々はどうするか。新しい環境に否応なく放り込まれて、自分のルールが通じないところに放り込まれてしまったら、どう行動するか。そんな場合、我々は大きなストレスに堪えながら、その環境に慣れていくしかなく、新しい環境においてまた新たな習慣を打ち立てるしかないのである。身体の使い方から考え方まで、すべて我々は習慣というものの強い拘束力に支配されている。その習慣とは、自分で自然に作り出したものでありながら、いかに自分の思い通り、思惑を超えたかたちで自分を支配している。

 ひとつの習慣が打ち立てられたことによって、別の動きの可能性が失われてしまう。右手で歯磨きを何十年も続けていると、左手がその動きを再現できるまでの苦労は相当なものである。食生活にしても同様で、同じものばかり食べ続けていると、慣れないものを食べることが困難になってくる。人間はひとつの習慣で生活がこなせると思うと、実に狡猾に、怠惰に、その最小限の動きだけで済まそうとするようになってくる。このことは、よく考えてみればとても恐ろしい。人間の身体において、意識しないうちに、特定の臓器しか働かなくなったり、特定の脳の部位しか働かなくなったり、ということもありえるのかもしれない。特定の脳の部位しか働かなくなるということは、記憶力とか創造力とか具体的な脳の機能が制限されるということもありうるが、心理学的な要素、つまり特定の思考に縛られるというような制限も考えられるのである。我々は「柔軟な思考をもたなければ」とひとことで言ってしまうが、真に柔軟で、何事にも、いかなる習慣にも縛られない柔軟な考え方なるものは、そうそうに出てこないのではないかと思われる。だから人生は苦しいのである。

 もちろん、習慣だから悪いわけではまったくない。習慣のメリットも多数あることだろう。身体が覚え込んだ、長年の習慣から生まれた正確で早い動きは、芸術的な価値に昇華することも考えられるだろう。右手で早くて確実に歯を磨けるということは、左手のなしうるぎこちない所作に比べれば、ある種の芸術性をもたらしているともいえるだろう。ある種の特殊な動きを徹底的に習慣化して身体に覚え込ませれば、芸術的な競技や演技ができるだろう。効果的に、かつ美しくできるということが習慣の力でもある。また、ある種の発想パターンを研ぎ澄ますことで、鋭い哲学的思考力が鍛えられるということもあるだろう。他方で、一点集中的に習慣のもたらす権威に従いつづけていると、他の能力が自然に抑圧されて、人間の可能性というものが喪われてしまうということにも気をつけなければならない。我々はそのバランスに自覚的であらねばならないということを、右手の親指の不自由に教わったような気がしている。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?