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白いものが混じる

 馴れない環境でバタバタしているうちに大学院の前期講義が終わり、どうにか折り返すことができた。四月、五月はいきなりコロナ罹患の影響で潰れてしまったし、六月、七月は一度ずつゼミでの報告があり、ほとんどの余暇時間をそこに持っていかれてしまった。毎回のゼミでは他の参加者が報告するテクストを読んでいることが前提となり、それが中編小説だったりするとおそろしく苦労した。なんというか、人生のほとんどの時間を文字を読むこと(と、たまに書くこと)に費やしていて、学生時代でもこれほど読書や読解に時間をかけたことはなかったのではないかと思うほどである。わずか十数分の通勤途中の電車内で、スマホに入れておいたテクストデータを読むための貴重な時間となった。入学前に形ばかりの研究計画は提出したが、具体的目標など立てておらず成り行き任せだったので、この数ヶ月はとにかく目の前のことをこなすだけで精一杯だった。自分が怠け者で体力不足ということもあるが、フルタイムで勤務する社会人が有給休暇だけを切り崩しながら大学のカリキュラムに沿って学ぶということは思った以上に大変で、それが身に沁みて理解できただけでも収穫であった。なんせ報告の前はいくら準備しても準備が万全にならず苦悩し、冷や汗をかきまくり、睡眠を削ってもろくなものができず、結局は有休を余分に切り崩す羽目になり、それにもかかわらず、ようやく当日になって資料が提出できるような醜態である。そうしてできた報告資料は幼稚極まりなく、なんとなく喋りながらも頭は茹で上がって回らないという有様。ただ、そうやって苦しみ抜いて報告を終えた後の解放感は相当なものである。自分の報告がない時はそれはそれで大変で、報告者が対象に取り上げたテクストを読んでも毎回毎回気の利いたコメントが出て来ず、その場しのぎの議論で場を冷やし、自分のほうは肝を冷やして腋汗まみれになる。おまけに準備を万全に行ったと自信満々で臨んだときに限って議論が別方向に進んでしまい、結局コメントできないことが多かったので、難しいものである。
 ともかく、こうした状況に耐え忍んで(?)学業に邁進する世の社会人学生の方々を心から尊敬する。否、社会人学生のみならず、本来の勤め以外に、運動でも音楽でも何でもいいが、目標をもって研鑽を積んでいる人々は並の精神力ではない。自分のことを言えば、それだけ苦労して這い進んだ割に、能力の向上はいまひとつ感じられず、いわゆる研究の体裁が成立するにはまだまだ時間を要することを痛感した次第であった。後半は年末・年度末に向けて仕事が繁忙期に入って来るなかで、大学院でのゼミ報告の機会が三度もあり、これはもう過労死を覚悟といっては大袈裟だが、どうやって誤魔化して楽に済ませるかが目下の課題である。実際のところは、こうして大変大変と言いながら動画サイトなどをのんべんだらりと見ている時間があるので、まだまだ危機感が足りないのだが、他方で難しいことばかり頭で考えていてもすぐにオーバーヒートするので、それくらいの息抜きもまた必要悪だと考えるほかない。それもこれも自分が望んだ束縛なのである。所詮は趣味なので、格好つけずに楽しめばいいのだと言い聞かせるが、なかなか見栄というやつを抑えることも大変なのだ。

 閑話休題。髪に白いものが混じるというのはよくある老いの表現だが、ついに自分にもそれがやってきたらしい。といっても頭髪の話ではない。頭髪については白髪よりも急速に進展する薄毛のほうが心配であるが、今頭皮を支えている毛たちは一応黒さを維持している。
 私は鼻毛が伸びやすく、週に1回は手入れをしないとブラシのように先端が主張してくる。いつからこのように生い茂るようになったのかは記憶にないが、全体的に体毛が多めであることに関係しているのと、おそらくは上京してから排気への防衛本能が働いているようだ。鼻腔に入る塵埃や雑菌を取り除くフィルターとしての本来の機能を充分に果たしている心強い味方で、彼等が茂っていないことには私は健康を維持できないのである。実際、鼻毛を処理したあとはいつも風邪をひきそうになるので、ギリギリの戦いを強いられているのである。単なる鼻毛の処理と馬鹿にできない。上京してから四半世紀が経過して、ますます免疫力が落ちて来ているだけに切実なバランスを求められる繊細な作業なのである。ある日のこと鼻腔のジャングルを処理していると、一本だけ白いものが混じっていた。私はそれに何の感動も覚えなかったけれど、そういえば背中の肩のあたりに一本白い毛が混じっていたことがあったのを思い出した。それは掃き溜めに鶴といった趣で屹立しており美しさも感じさせたが、伸びて鼻腔外にはみ出すのは困るのでもちろん切除するに至った。数日後、再び白い鼻毛が再生していた。

 何の話かわからぬが、このように今の私の頭の中では学問と鼻毛が同一平面上で語られるものであるらしく、すなわちそれは学問が身体的であることを意味するのか、あるいは鼻毛が悟性的であることを意味するのか、などということを考えながら、とりあえずは夏休みを謳歌したいと思いつつ、学校はなくても仕事は普通に毎日あるんだったと思い出し、大人は実に大変なんだな、これだけ時間のなさに困るのだったら子供の頃にもっと有効活用しておくんだったな、などと歎き悔いても、もちろん時すでに遅し。



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