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性的虐待を受けていた元M女の話④〜さようなら毒親友達

※フラッシュバックを起こしそうな方は読むのご注意ください。

※元M女というのは元々SMのM側をしていた女という意味です。今はもうしないことにしてしていませんので、元、です。


自分にとって彼女の存在は大きいものだった。
一番苦しい時に助けてくれた人だったからだ。
でも彼女は宗教家のようになり人を救うことに邁進するようになってしまった。
最後に話した時のことを思い出す。
彼女にとって私も金蔓の一人になっていたのだろう。
今までのこと感謝してる。だけどもうお金は払わない。
私がそう告げた時、彼女は拒絶された幼い子供のような表情で、宗教の教義に則ったなにがしかの理屈をつけて、あなたの幸運を祈る、というようなことを言った。


しばらくしてから、彼女も昔性的虐待を受けていたことを人づてに聞いた。しかし、彼女自身はそれを自覚もケアもしていないことも。


いろんなことが腑に落ちた。彼女が異性関係において、三股も四股もかけていたこと。警察沙汰にするべきではないかと進言したほどのDV被害に遭っていたこと。それでも離婚した後も元夫を悪く言わなかったこと。自分の行動になにがしかの理屈をつけて崇高な行為のように話していたこと。
推測でしかないけれど、きっと、ケアしないままの心の傷が、彼女を極端な行動に駆り立てていたのだ。

数百万。
私がかつて彼女に払った金額だ。当時の貯金を使い果たしてようやく目が覚めた。
私の父は間違いなく毒親だったけれど、借金はするな、とよく言われていたことが私の身を救った気がする。

今も彼女の元に集う人々がいるようだ。
私が通っていた時期に借金をしてまで通っていた人がいたが、その人もまだそこに通い続けているということだ。悲しみのような、怒りのような、複雑な気持ちが生まれる。

彼女はきっと自らの身を省みることはできないのだろう。だって、そうしたら、自分が今まで騙してきた自分自身を省みる痛みだけじゃなくて、自分の自己欺瞞に巻き込んで騙してきた人々のことまで省みる痛みを引き受けなければならないから。それでも本当に誠心誠意謝罪する気になったなら、誰だっていつからだって変われるのだと思うのだけど、彼女の周りの取り巻きはそんなこと指摘もしないのだろうから、きっと彼女は一生あのままなのだろう。
自分の教義に賛同してくれる人が集まってくれることで生きる意味を感じる、と、かつて彼女は語っていた。今思えば、その横顔はとても不安で苦しそうだった。私にそれを肯定してほしいのだという痛切な気持ちが漏れていたことを、彼女は自覚していたのだろうか?

可哀想だ。
あまり人に対してそういう風に思わないのだけど、彼女は可哀想だと思う。でもそれは彼女自身の責任だ。
虐待は連鎖する。彼女は別れた子供のことをたまに語った。なにがしかの理屈をつけて、正当化する為に。彼女は何度も何度も語った。
可哀想だ。
彼女が性的虐待を受けたことは彼女に何の非もないことだ。だけどその後の言動が新たな被害者を生み、心の傷が連鎖していく。こんな風に。こんな身近で。この歳になるまで、私はそれに気づかなかった。
自分も人間関係で人を傷つけてしまったことはある。だけどこんなに巧妙な形で騙すことはしていなかったことを、幸運に思う。結婚もしていない。子供もいない。孤独だけど、孤独だから、誰かを酷く傷つけることがなくって、本当によかった。
踏みとどまってよかった。私も苦しかった。誰かに当たりたかった。助けてほしかった。今も苦しい。苦しい苦しい。苦しいよ。だけど。

私は彼女とは違う。
彼女は私がお気に入りで、自分とあなたは似ていると同じだと何度も何度も言ってきた。その言葉が、呪いのように、鎖のように、私の思考の道筋に絡みついて自由になるのを許さなかった。


私は、彼女とは違う。


私は痛みを誤魔化す為に邁進する生き方をやめた。性依存を断ち、アルコール依存を断った。そして自分の心の傷を真正面から受けとめた。
これから、C-PTSDの治療をしながら、自分の心をケアしながら、働き続けて、趣味とか好きなことを続けて、そういう風に毎日過ごしていきたい。
私はかつて、何か価値を作らないと生きていけないと思っていた。それは根深いところにある自己否定感の影響で、性的虐待から生じたことだった。でもそれを自覚することができなかった。だからただ苦しさから逃れたくて、価値がほしくて宗教に救いを求めた。いつか誰かを救えるようになれば、それが自分の価値になると思っていた。
私にはもうその衝動自体が必要なくなる。自分の傷を認めることで、その一歩を踏み出したところだから。


さようなら、かつての毒親友達。

私は自分の道を進む。彼女がどう言おうと思おうと関係なく、私は私なのだから。


つづく