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福祉の道を駆け抜けて、思ってもみない夢を抱く


夫の転勤で、
今の仕事を2月末で辞めなきゃならない。

焼き菓子店でバイトを始めてから、
もう福祉の仕事はしないだろうなって思ってたのに、
ひょんなことからまた戻ってきている。



「想像していなかった未来」は、
これからも続いていく。


私、次の引っ越し先で、
どんなお仕事をえらぶんだろう。

社会福祉士として走ってきた今までのこと、
振り返ってみようとおもう。





私が福祉の世界に飛び込んだきっかけ


今でこそ、いわゆる ”高齢者の方の総合相談窓口” に勤めているが、
私が福祉に携わりたいと思ったきっかけは、
おじいちゃんおばあちゃんにまつわることでは無かった。


時は遡り、高校生。
お付き合いしていたひとがいた。

こんな簡単でありきたりな言葉で片付けてはいけないのだけど、
ごめんね、ここではかれが抱えていたものを
「生きづらさ」と表現させてもらいます。

大人としては社会からは認められず
自分だけの署名では
それを社会的同意としてもらえない。
それなのに、
子どもにしては一人で立ち向かわなければならないことが多すぎる。
高校生って、絶妙にどうにもならない時期。

たった三年ぽっちだったけど、
かれがまだ仲の良い母親にさえ打ち明けられていなかった「生きづらさ」のこと、
17歳の私は、
一緒に受け止めている気持ちになっていた。
(本当のところはわからないから、こういう書き方をします。)

そのことで、たくさん一緒に泣いたなあ。
そしてたくさん笑って、共通の趣味の時間を過ごして。
楽しく過ごした時間もうんと長かった。

まだ当時は「愛」が何たるかを知らなかったけど、
今思えばあれは愛だったなあと感じる。いい思い出。


かれと一緒に医療機関へ出向いたり、
ピア(同じような立場の人)のコミュニティとか、
サポートしてくれる場所を探したりした。
治療を受け、「少し楽になった」と話し、
少しずつ前に進もうとするかれの姿をそばで見ていた。

そのうち私は、
自分の無力さを痛感するとともに、
将来は誰かの役に立つ、
力になれる仕事に就きたいと思うようになった。


その願いと、
できるならば少しでもかれの近くにいたいという下心(笑)で、
関西方面の大学に進学。

医療機関で勤める社会福祉士、
「医療ソーシャルワーカー」という仕事と出会う。

(医療ソーシャルワーカーの業務の一部)
患者様、ご家族が安心して療養できるよう、心理的、社会的問題のご相談に応じ、問題の解決に必要な援助を行います。
 主治医をはじめ院内スタッフと連絡・調整を行いながら、退院時期、活用できる社会資源、介護ができる条件などのさまざまな状況を確認し、在宅復帰等へ向けた支援を行います。

公益社団法人 日本医療ソーシャルワーカー協会 ウェブサイト より


実習先も病院を選び、
卒業論文も医療福祉にまつわる内容を書き上げた。
いよいよ私は医療ソーシャルワーカーとして
生きていくのだと信じていた。





新卒で、ぶちのめされる


地元へ戻り、新卒で入職した総合病院。
”さあ、これから、夢にまで見た病院での仕事。
 一生懸命勉強して、患者さんの力になれたらいいな。”


しかし、
ここで私はことごとく理想と現実のギャップにぶちのめされる。

患者さん、家族だけでなく、
もちろん医師、看護師、コメディカルの方々、
色んな人の考えがある。
聞かなきゃならないから聞いていったけど、
皆それぞれ自分の置かれた立場からの意見を持っていて、
それらが頭へなだれ込んできて、全く整理ができなかった。

びくびくしながら医師へ話を聞きにいき、
師長さんからは無視されていると、
どうしても保身にも走りたくなってしまう。

「患者さん、ご家族さんの思い」、
本当に大切なことがわからなくなっていった。

要は、私には務まらなかった。

結局、
度々胃腸炎で高熱を出し、
仕事中にも涙が止められない私の姿を見かねて、
上司は「あなたには、この仕事は向いてないと思う」と言った。

正直、”絶望”のようなものも感じなくはなかった。

でももう私には、
いくら夢見た職業だからといって、
これ以上しがみつく余力は残っていなかった。

そのまま上司に勧められた
臨床心理士の先生のカウンセリングを受けて、
ひとしきり涙を流し、気持ちの整理がついた。

こうして私は僅か一年半という期間で、
医療ソーシャルワーカーの仕事を辞めた。





自宅パワー!


私は次の仕事先に、
デイサービスの生活相談員を選んだ。

デイサービス(通所介護)とは、
在宅で生活している高齢者等が通い、
介護サービスを受けたり機能訓練を行ったりするところ。

病院にいた時、
患者さんたちの「家に帰りたい」という強い思いに
たくさん触れた。

胸から大量の水を抜きながら
「私ゃ這いつくばってでも帰るよ」と言ったおばあさん。
退院日、手を振りながらバスで帰っていく姿を忘れない。

末期癌の男性と、その奥さん。
「最期に家で暮らせるように準備してくださって、
 ありがとうございます。」という言葉をくれた。
まもなく、ご自宅で最期を迎えられた。

今度は、在宅で生活されている方の
「ずっと家で暮らしたい」という思いをお手伝いしたいと思った。


利用者さんやご家族の思いを
できるだけ叶えたいという考え方で、
どんな方でも基本的には受け入れをするデイサービスだった。

初めて、(介護福祉士の指導を受けた上で)
要介護5の寝たきりのおじいちゃんを持ち上げたり、
酸素チューブの付け替えをしたりした。

認知症がとっても進んでいて、
「本当に一人暮らしができるの?」と思う方でも、
家に帰れば本領発揮し ちゃっちゃとご飯を作る。

手術のショックでご飯が食べられなくなり胃瘻を作った方は、
家に帰れば口からもりもり食べれるようになり、
胃瘻も取ってしまった。

一番は本人がどこで暮らしたいかだけど、
「自宅で暮らす」を選んだ人たちの、家でのパワーは凄かった。

デイサービスでの仕事は、
その生き様をありありと見せていただいた経験となった。





”介護予防” という考え方との出会い


こうして高齢者の自宅パワー信者となった私。

デイサービスでの仕事は、結婚に伴う引っ越しで、
あっさりと辞めなければならなくなった。

次のお仕事は、
地域づくりの側から
高齢者の「ずっと家で暮らしたい」という思いをお手伝いするべく、
社会福祉協議会を選んだ。

市町村社会福祉協議会は、
誰もが支え合いながら安心して暮らすこと ができる「ともに生きる豊かな地域社会」づくりを推進することを使命とする。

厚生労働省 ウェブサイト より

社協は、働きかける対象に年齢などの枠が無いため、
ほんとうに色んな仕事をした。(しすぎて割愛する)

そのひとつに、
担当する地域へ何度も足を運び、
地域の ”まちづくり” を行う団体の後方支援的なものがあった。

そこで私は初めて、
地域の主には高齢者が集い、
体操をしたりお茶を飲みお喋りしたりする、
いわゆる「サロン」へお邪魔した。

会場内はお喋りを楽しむ高齢者の方々で賑わい、
多くの人が「ここに通うことが楽しみ」と口を揃える。

このサロン運営をはじめ、
地域で活躍する高齢者の年齢層は、70〜80代。

90代となると参加する側になることが多いが、
ほんとうにびっくりするほどお元気。

病院やデイサービスでお会いしてきた
同世代くらいの方達とはまた全然違っていた。

・外出し、人と話すこと
・いつもまでも役割を持ち続けること 等々…
これらが、健康寿命を延ばすことに繋がる。

ここで私は、いわゆる介護予防の考え方と出会った。

そして、そういった居場所は、
単純に、人がいて、あったかいのだ。
私はそこへ仕事で行くことが 好き だった。


こうして社協で4年ほど働いていたある時。

この頃まだ夫には転勤のての字も無かったので、
私はここでずっと勤め続けるものだと思い込んでいた。

しかし、幾年ぶりの転勤辞令で、
私は今広島で、別の福祉の仕事をしている。
そしてまたその職場も辞めて、次の転勤先へ移る。





全ての経験が、夢に繋がっていた


ある日突然転勤で仕事を辞めなければならなくなること、
一つの仕事に執着する必要がなくなることは、
私に 無理に雇用される側で居続ける必要も無いのでは?ということに気づかせてくれた。

「私、何がやりたいかな?」って思った時、
すぐに浮かんだのが
「地域の居場所となるカフェをつくること」だった。

言わずもがな、前職での経験がきっかけ。

色々な仕事を通じて人々の「自宅で暮らす」をお手伝いしてきた結果、
たどり着いた答え。

これが私の、三十を越してからの夢。


同じ社会福祉士でも
全然別の仕事を転々としているようで、
思い返すと全ての経験が繋がっていた。


履歴書の職歴欄が延びていくにつれ、
一つの職場での経験を積んでいなくて、
どこに行っても新人の自分って
「一体今まで何してきたんだろう?」って
はたらくことの意味もわからなくなっていた。

だけど、
今こうして振り返ってみると、
それぞれの職場で出会った人達の言葉や、
目の当たりにしたこと
「楽しいな」「大切にしたいな」という自分の思い
そういうのはずっと自分の中に残っていて、
私のこれからを創ってくれていた。


実は、まだどうなるかわからないから
ここに書くか迷ったけど、
次の夫の転勤先で約三年勤めたら、
むすめが小学校に上がるのに合わせて、
地元に戻らせてもらえる約束になっている。

いよいよ、
夢の実現へのプロセスも、現実味を帯びてきた。

それまでの間、私にできることは何だろう。
資金のためにやっぱりパートはしなくちゃな。



「想像していなかった未来」は、これからも続いていく。

だけど、夢ができた今、
それはどんどん、キラキラと輝く楽しみなものになってゆく。




長くなってしまいました。

いつも、お付き合いいただいて、ありがとうございました。








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