見られている意識が自らを律するのです。
先日、出張で東京方面に向かう満員電車に乗る機会があった。
私はいつもの通りドアの手すり付近のスペースを確保して、窓の外側を向き、前に抱えたリュックサックの中からiPadを取り出して電子書籍を読んでいた。
すると、下車する予定の駅までもうあと5分というところで、私の後方から何やら声が聞こえてきた。
「さっきから手がぶつかってきてんだよ」
「満員電車なんだから仕方ないだろうがよ」
「お前が気を付ければいいだけだろうが」
「うるせぇなぁ」
どうやら、私のすぐ後方にいる(おそらく中年の)男性2人が、体が当たっているいないという話で口論になっているようだ。一応周りを憚っているのか、大声は出さずに小声で話が進行している。しかしこれにより、私は電子書籍を読む集中力を失って、彼らの会話が耳に入らざるを得なくなってしまった。
すると、彼らはお互い小声のままではあるが、徐々にその口論の内容がヒートアップしてきた。
「俺より年上のくせに大人げないな」
「そんなの関係ねぇだろこのデブよぉ」
(まだ容姿さえ見ていないから本当の年齢はわからないが、)そんな歳になってたら既に年齢なんて関係ないだろと思ったり、ここに文字として書くことすら憚られるような言葉を平気で使って、小中学生のような口論を公衆の面前で行うことの恥ずかしさを感じないのか、と私は内心思っていたのだが、当事者になるとそういう自分を客観視する意識も失われてしまうのかもしれない。
おそらく、周辺にいた人全てが、これ以上ヒートアップしないでくれ、と嫌気がさしているだろうと思った私は、彼らに一言物申すかどうか、言うとしたら何というかを真剣に考えたのだが、あまり良い解が思いつかず、うまく解決できるシナリオも思いつかなかった。
皆と同じく、ヒートアップしないことを祈るしかないか、と諦めたそのとき、次の駅への停車を知らせる車内アナウンスが流れてきた。
そこで、その駅で降りる予定だった私は、出口となる反対側のドアの方を向くために、車内内側にくるっと体の向きを変えた。
その結果、目の前に口論中の男性2人が現れ(本当に中年男性2人だった)、彼らと私が正面で向き合う形になった。
すると不思議なことに、これまで小声で口論していた2人が、急に押し黙ったのである。
これを受けて私は、なるほど、と思った。
明示的に「やめてください」と言わないにしても、彼らにとっては私が振り返って真正面に立つことにより、「誰かに見られている」という意識が抑止力になったのだと思う。
つまり、こういう「誰かに見られている」という気になると、自分を客観視する思考が形成され、自分の行動や言動に気を遣うようになるのだろう。
これは、自分としてもよくわかる。別に自分がそういう悪態をついたことがあるわけではないが、自分の使う言葉や行動から、生き方に至るまで、誰かに見られていても恥ずかしくないようにしよう、ということはなるべく意識しようとしている。
自分の言葉や行動に責任を持つということを自覚するためにも、誰かに常に見られている意識というのは有効かもしれない。