愛が欲しければまず愛を与えるべきなのです。
商売の本質が「人に好きになってもらうこと」「人から選ばれること」なのだとしたら、考えなければいけないことは、「人から選ばれるためにはどうすればよいか」、ということである。
これまでの人生において、私はありがたいことに、自分としては無意識的に、誰かから選ばれて人をまとめる立場や役割を与えられることが多かったように感じている。
例えば中学生のとき、ある日部活の顧問に呼び出されて、「次の部長はお前だ」と言われた。
高校生のとき、ある日電話が来て、「子どもたちと行くキャンプの実行委員をやらないか」と言われた。
大学生のとき、サークルのメンバーの投票によって会長に選出されそうになった(もう1人の候補と同数で、2人で話し合った結果、私は副会長になった)。
これらのどのケースも、正直に言えば、選ばれようと思っていた気持ちは全くなかった。何かそういう初めての役割を能動的に担おうとしたことも無かった(1度やってみて楽しさややりがいを感じたから、再び能動的に選択したことはあるが)。
そういう、ある意味で自分自身を積極的に誰かに売り込みに行くような、そういうことには、今まで取り組むことが無かったのである。
では、私はなぜ選ばれてきたのだろうか?
それは、私が周りの人々に好かれていたからだけでは必ずしもない、と思う。
こういう言い方をすると良くないかもしれないが、たぶん、選んだ人にとって都合が良かったからだ。
人当たりが良くて、物分かりも良くて、反論せずに言うことを聞き、かつ実行力にも長けている人間は、誰にとっても部下や便利屋として欲しい人材である。
私という人間が選ばれたのではなく、その人間集団の中でたまたま私がそういう立場や役割をこなす能力や資質を持っていると見なされて選ばれたに過ぎないのだと思う。
人に求められる、選ばれるということは、本来は喜ばしいことだし、ありがたいことのはずだ。しかし、それを素直に喜べない自分がいることもまた事実である。そういうわがままさや傲慢さを持つ自分のことは、あまり好きではない。
では、自分という人間を好いてもらって選ばれるにはどうすればよかったのか。
人に好きになってもらうには、逆説的だがおそらく、自分が相手のことを好きにならないといけなかったのだと思う。
人間は自分のことを好意的に思ってくれる人に対して好意を抱く。これは自分の感覚としてもよくわかる。
だから、人からの愛が欲しいのならば、まずは人に愛を与えなければならなかったのだ。
私は、それをやってこなかった。
人に愛を与える、ということをほとんどやってこなかったのだから、前述のような選び方をされても決して文句は言えないのだ。