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身銭を切るから価値あるものを得られるのです。
【身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質】という本がある。
ナシーム・ニコラス・タレブという人が書いた本で、他には【ブラック・スワン】や【反脆弱性】などの著書が有名である。
リスク論を語る上で、彼の言っていることを理解することは大事だと思ったので、この数年で彼の著書をいくつか読みながら、その思想を理解しようと努めている。
私は冒頭に紹介した本を数年前に読んだのだが、あるとき不意にその内容が気になって、昔の読書メモを引っ張り出してきて目を通してみた。
それらを読んで自分の記憶の引き出しを開けた上で、ここで彼が言っている「身銭を切れ」という言葉の意味を私なりに解釈して説明すると、「一見、自分自身にとって損に見えることがらに対しても適切にコストを払わない人間は、かえって何も得ることはできない」という感じになるだろうか。
これは読んだ当時も、そしてメモを読み直して文章を書いている今も、私の胸に突き刺さる内容である。
それはなぜかというと、私が様々なことがらに対して心が動きにくかったり、感動しにくかったりする人間だからである。
私がなかなか物事に感動できないのはおそらく、この「身銭を切る」感覚が欠如していることが多いからではないか、と思う。
こんな私であっても、過去の経験上は、確かに何らかのコストをかけたり自分なりに大変な思いをしながらも主体的に関わった物事については、普段以上に思い入れが強くなったり、その結果を見て感動できたりしたことがある。
これまでは、その感動が得られたのは物事に取り組む「本気度」が高かったからだ、と思っていたが、おそらくそれは本質的な表現ではない、と考え直した。
自分の時間や労力をコストとして差し出して、対象物に主体的に関わることによってはじめて、その対象物を「自分の思い入れがあるもの」として捉えることができ、そこから感動という(支払ったコスト分に見合う、もしくは超える)「何らかの価値」を得ることができるのである。
私は「本気になれないこと」をコンプレックスとして生きてきたところがあって、そういう人間がプラスの価値を生むにはどうすればいいのか、と考えていた。
しかし、大事なことは「本気を出すこと」というよりもむしろ、「適切に身銭を切ること」なのだと思う。
身を滅ぼすほどに本気を出すことに振り切るのではなく、自分にとっての目先の小さなコストを適切に支払い「少しの無理」を出すことによって、自分のコンプレックスは克服できるかもしれない、という思考に至ることができた。
このように書くと、結局はドライで打算的に価値を得ようとしているように見えるが、この際それはもうどうでもいい。
それを継続することで、それを当たり前として生きている人間になるしかないのである。
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