こころと色について
こころの状態について、色で表現することはよくある。
バラ色の未来、恥ずかしくて真っ赤、真っ白になった、怖くて青ざめた、などなど。
彩りを持つと華やかになるので、それは通常運転のこころと表現してもいいかもしれない。陽を浴びている感覚のこころの表現にはいい。
では、状態が良くないこころを表す色とはどんなものだろうか。
それは彩度を無くしたモノトーンなのかなと考える。
白、黒、灰色、白から黒への、そのグラデーションと言えるかもしれない。
例えば、認知の歪みや癖として使われる表現として、白黒思考が代表的だろう。
物事を白黒ハッキリとしなければ気が済まない。
しかも、この白黒はオセロのように表裏一体のため、その都度反転する。時々でこころの状態がコロコロと変わるのである。
このような時、こころが不安定なのは想像に難くない。なにしろ、白黒どちらになるかはその時々の気分次第であるため、その時になってみなければわからないし、極端であるし、白黒どちらにしても、主張が強すぎる。気持ちの波が大きいのである。
自分のこころの中でさえそうなのだから、そのこころが誰かのこころと会うなり、ぶつかるなりした時には、その反応さえも激しくなりやすいのも頷ける。
では、そのグラデーションの真ん中である灰色とは、どのように表現できるだろうか。
白や黒のように、はっきりとしていないため主張は強くなく、穏やかなものになるだろう。極端にもなりにくいだろうし、灰色は白と黒の融合であるから、混ざっているともいえる。激しくないし、一定の状態を保っているともいえる。こちらは気持ちの波がほとんどない凪の状態ともいえる。冷静なこころとも言えるかもしれない。
こころが疲れたり病んだりしている時、こころは白黒になりやすい。こころは疲弊しているがために、焦りや不安が起こりやすく、その状態は不安定とならざるを得ない。感情も爆発しやすいだろう。言いたくないことまで言ってしまって後悔する、などということも起こりやすい。その逆も然りで、言わなばならないことを言えずに我慢することもあるかもしれない。
ストレスが大きいことは容易に創造がつくであろう。
ここから、いくらグラデーションとはいえ、一気に灰色まで持っていくのは、とても難しい。
では、どうしていくのかと考えると、白ならば、ほんの少し黒を足す。黒ならば、ほんの少し白を足す、考え方や物事の捉え方、他者への接し方を試していくことである。
すぐに出来るものでは無いし、一度出来ても又できなくなる時もあるだろう。それでも、それを根気よく続けていくことに意味はあるだろうし、極端な白黒から少しでも離れることができたなら、それで十分な時もあるだろうと思う。
要は、さじ加減ともいえる。
白黒だからといって、それがまったく悪い訳では無い。はっきりとした態度が必要な時もある。ただし、それは灰色の状態のこころが下す判断としての白黒という態度でなければ用をなさないだろう。
灰色は、曖昧で味気ないと感じるかもしれない。
しかし、灰色は晴れにも雨にもなる曇り空、真っ暗でもなく、眩しすぎもしない日常の世界の色なのだと考えてみるのはどうだろうか。
日常は、はっきりとせず曖昧なことに溢れている。
その中に居ることが通常であり、そこからグラデーションとしてのモノクロがあり、更には色としての色彩が感じられたなら、素晴らしいのではないかと考える。
ピアノは白鍵と黒鍵で作られている。
それぞれの「音色」ははっきりとしている。これが白黒の状態。
同時に鍵盤を奏でることで、美しい和音にも不響和音にもなる。これが白と黒が混ざりあった灰色から奏でられる、曖昧さを持った響きとなるのだと思う。
これらの事は何を意味するのだろうか。
人と人とのこころの繋がりなのだろうと私は考える。