幸せを感じるために必要な要素のひとつに、他者貢献に伴う貢献感の感覚を持つことがあるらしい。 利他的な行いとそれに伴う関与感と言い換えることも出来るかもしれない。 では利己的な行いが幸福感に繋がることはないのだろうか。 例えば、やり始めは自分の為にとしていたことが、他者の役に立つものであると判明する場合など。
認知行動療法(CBT)の認知再構成法などで使われる用語である自動思考。 ある出来事に対して、ふわふわと自然と浮かんでくるような考え。 この自動思考が、認知の歪みとして捉えられるようなものであるとき、つまり合理的でないものであるときにその歪みを修正していくのが認知再構成法などの考え方である。 では、自動思考とはうつなどの病的な状態特有のものなのか?といえば、そうではなく、人それぞれが生活の中で獲得なり学習してきた、物事への対処の仕方としての方法のまとまり(枠)のようなもの
私たちはそれぞれが個別の独立した存在であり、誰一人として同じ者はいない。 それぞれが、それぞれの感情や思考を持ち、それがそれぞれに異なっているからこそ、それらを理解しようと努めるのである。 ここで1つ臨床と言う事態を考えてみる。 臨床ということは、とかく専門家の専売特許のように思えるが、実は誰もが経験し、知っていることの1つであると言えるのではないだろうか。 臨床という言葉の語源は、古代ギリシャ語のクリネー(寝台)によっていて、英語ではクリニックもしくはクリニカルとな
うつ、うつ病について、もしくは双極性障害におけるうつエピソードについて、その辛さはどのようなものなのかについてざっくりと触れてみたい。 一般的な、もしくは医学的な区分によるならば、急性期と回復期、寛解維持期(再発防止期)などにわけられると思う。 急性期においては、不眠、疲労感、倦怠感、怠さ、発熱、胃腸症状、頭痛などの痛み、下痢など、精神疾患であるにも関わらず、身体症状だけでもかなり辛く、それだけで社会生活に不便が生じるほどのものである。 そこにうつ特有の、気力のなさ、興味
受診も含めて、カウンセリングや傾聴活動利用による一時的な体調不良について カウンセリングなどで吐き出せたり、話せなかった想いを話せたあと、一時的に症状や体調の悪化のように感じる状態になることがある。 例えば、 ストレス環境にいて、そのストレス発散を語ったあと、一時的にストレスからの解放によって気持ちも身体も軽くなるように感じる。 しかし、現実に戻るとストレスを受けるので身体が重く感じたり、それに引きずられるように気分も下がったりする。 上がった後に落ちるので、悪くなったよ
マジョリティとマイノリティについて 精神疾患者という点では、私達はマイノリティだと思う。 視点を変えて、日本人であるとか日本語を使用するという点では、この国ではマジョリティ。 マジョリティは無意識的に権力構造を孕むという。 ならば、私達はマジョリティとして、別のマイノリティへの偏見や差別を持ちつつ、一方では精神疾患による差別や偏見を受ける対象となる。 ステレオタイプとして生活の中で形成される偏見や差別、それに伴う感情など、私たちはその都度置かれる立場によりマイノリティに
かつて、予備校の講師から聞いた言葉が今も消えずにこころにある。 元は受験に対しての心構えの言葉だけれど、日常にも活かせる言葉かと思う。 引用 いつもと同じものを食い いつもと同じ服を着て いつもの様にやればいい やるだけやった君だもの すくむな 気負うな 侮るな
身体のエネルギーの循環は、give-and-takeのようなところが多いと思う。 使ったエネルギーは摂取して、睡眠によって回復を図る。 心のエネルギーについては、give-and-takeの面もあるものの、give-and-given、つまり与えると与えられるようなところもあるのではないかと思う。 ヘルパー原理のようなものかもしれない。 与えること=労力を使う(疲労、マイナス)だけなのではなく、受け容れられたり、感謝の言葉だったり、労いの言葉などを与えられること、なども
世の中に数多ある可能性をいちいち数え上げもるまでもなく、そのほとんどは自分には出来ないことや手さえ届かないものの方が多く、自分に出来ることはほんの僅かでしかないことに気づく。 精神疾患を抱えると、どうしても出来ないことやそれにまつわる自責的感情や存在価値の否定へと思考が向くのは、限られていることさえ出来ないという不全感をどこかで感じているからなのではないかと、思いを馳せてみる。
多様性とは言われているけれども、疾患や障害については、政策としての地域包括支援システムなどの構築による社会参加などは考えられつつも、現実としては、多様性の中に通常からは外れたものとして疾患や障害は捉えられる医療モデル(個人への治療などによる回復)が主であるように感じる。 社会的障壁による疾患や障害への様々な影響について、もっと議論なりが盛んになればいいなと思う。
精神疾患当事者間の交流や繋がりにおいては、疾患の症状や認知の癖のようなものに影響を受けやすい。 自分や相手がそのような状態の時には、その言動は、本来の自分や相手ではないかもしれないというカッコをつけて考えてみることも必要かと思う。 ただし、ある程度の回復段階にあることは条件となるかもしれないし、そのような状態の時に本来の交流や繋がりを持てるのかもしれないと考える。
精神医学において、精神病圏とされる疾患の判断基準の一つに現実検討力の有無がある。 双極性障害(うつ含む)や統合失調症において、妄想状態があることからも推察されるとおり、現実検討力が失われているのが精神病圏の疾患とされる。 その状態は、あくまで病的であり、当事者本人の本来の状態ではないことに注意を向けることは大切だと思われる。
当たり前のように思われるかもしれないけれど、嫌な事やストレスフルな事に遭遇して感じた気持ちを自分の中で上手く消化出来ない時、吐き出せたり、相談出来たりする繋がりは大切だと思う。 主治医やセラピスト、家族、友人、恩師、ここでの繋がりなど。 このような存在は意外と当たり前のものではなく、求めなければ得られない関係のように思う。
あるがままの自分を認める。 自己受容。 疾患や悩みを抱えて生きていくことの過程として、よく使われる言葉。 使うし聞くけれども、その中身や実践はとても難しい。 自分と向き合う、対峙することの難しさや苦しさは、そもそも自分一人で成し遂げられるのか?という所にもあると思う。 自分で自分と向き合うのは、主観からは逃れ難く、客観的視点を持つことの難しさとも言える。 自分でするならば、主観が想像する限りの他者視点を作り出し、その中で向き合うことには一人で想像することの限界がある。
今、少し速度が早くないか? 自分に問いかけてみる。 新しく始めたことを、なんとかしようと頑張りすぎてないか。 そちらに気を取られて、他の事がおろそかになってないか。 気づけたら儲けものと思う。 何をどこまですればいいのか、吟味出来る状態に近づける。
例えば、健康な場合をポジティブ、抑うつの場合をネガティブとしてみる。 大抵の人は、次の瞬間や明日自分が事故に遭うとか死ぬとか考えていない。しかし現実的には、これは錯覚、ポジティブ・イリュージョンの中で生きている。 一方、病的でない抑うつ気分の時は、抑うつのリアリズムという、世界を現実的に見たりすることが出来る言われている。 ポジティブだけでは対応が難しい時には、ネガティブな思考が助けになることもある。 たまには、こういうことも意識してみるのもいいかもしれない。