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本当は、しなくていい戦いであってほしい【note感想文】
今回のnoteは、「あなたの渾身のnote、応援します!」企画にご応募いただいた、ひとみさんのnote感想文です。
▽企画概要note【2/14で受付終了】▽
▽今回、感想を書かせていただいた、ひとみさんのnote▽
歴史研究家としての書籍出版もされているひとみさん。丁寧に裏取りをされている記事をnoteで公開しています。
メンバーシップ会員として毎日活動報告もしてもらっていますが、精力的に勉強会や自身の出版準備などを進められていて、わたしも非常に刺激をいただいています!
▽先日出版されたkindle本(kindle Unlimited対象)
そんなひとみさんは、障がいを抱えているお子さんがいらっしゃり、お子さんについて書いたnoteの一つが、今回のnoteとなります。
わたしの「渾身のnote」に共感いただき、メンバーシップに入っていただいたひとみさんですが、後から境遇を知り、わたしのほうも心を動かされました。
▽ひとみさんにコメントいただいた、わたしの「渾身のnote」
生きるための「戦い」
わたしは、「生きることは戦いである」という考え方が割と染みついています。「戦わなければ生きらない」「成果や能力を示して、生き残る」こうした考え方で突き進んだ結果、パフォーマンスを発揮できない環境に陥り、適応障害となりました。
とは言え、今でも仕事中にひたすら時間を潰すようにおしゃべりばかりしている方にはイラっとします。もちろん、ずっと怖い顔をしていようという話ではなく、休憩時間であったりとかメリハリはあったほうがいいと思っています。
ですが、基本的には、一人一人に責任を問われる役割があり、それに対して戦っているというのがわたしの基本スタンスです。自身の成長や今までできなかったことにチャレンジしているので、緊張感は必須であると。
しかし、です。「余儀なくされること」これには、大きな抵抗を覚えます。それは、わたしが守りたい「選択の自由」が奪われるから。その人が輝くための自由意思や主体的な選択を奪うから。
他のnoteでも少し触れましたが、中学のときに、クラスからいじめられている女のコがいました。ちなみに、全然カッコいい話ではなく、わたしは「何もしません」でした。中学になると、わたしより学力の高い人はたくさんいて、”絶対的な存在”ではなくなっていました。
自分のことも十分にできていないわたしが、勇気を出してそのコのために何かできることはありません。しかし、今でもそのコのことを思い出すと、心がザワつきます。もちろん、マンガにあるような陰湿で凄惨なイジメがあったわけではありません。
ただ、一つ強く思うのは、その人が純粋な気持ちで頑張っていることを悪く言うのは違うだろうということです。その人なりに一生懸命やっていること、それがいわゆる「平均並み」でないときに、人の反応は突然残酷な攻撃に変貌します。
なぜ、そんなことが出来るのでしょうか。自分がそちら側に行かないという保証はないのに。あるいは、本当に頭がいい人や勉強ができる人から見れば、構造としては大差はないはずです。自分がたまたま「普通」のゾーンにいるだけで、なぜそこまで人は残酷になれるのでしょうか。
それは、不安だからかもしれません。自分が何者でもないことに気づいているからかもしれません。ですが、いや、だからこそ、確認したくてしょうがないのでしょうか。自分より「下」の存在を確認し、安心したいというどうしようもない考え方に。
グレーは、だいたいアウトなほう
話は変わりますが、わたしが初めてアート原画を購入させていただいた大森亜矢子さん。作品を知った後に拝見した、大森さんのお子さんに関するポストを見て、これまた衝撃が走りました。
三男が希望してた小学校の支援級に決まってハッピー!!!!!🙌
— 大森亜矢子 日本画 (@_aya_1011_) February 18, 2025
そして長男と三男の受給者証の申請に役所に行ったら、「こんなにちゃんと支援を考えてる素晴らしいお母さんに会えて嬉しい!!!」って拍手して褒めてもらえてハッピー!!!!🙌
頑張ってるとちゃんと見ててくれる人がいるんだね!🙌
しっかり準備をしないと、特別支援学校や知的障害特別支援学級に入れない現実を知り愕然としました。確かに、支援する側の人員など多くの現実があるのだとは思います。ですが、です。
先ほど挙げた中学生のときにいたあのコの親が、
・そうした準備を怠ったのか
・「支援」ではない学校に行かせたかったのか
・支援学校に行かせたかったけど叶わなかったのか
その背景は、もはや知る由もありません。ですが、本人はどうだったのでしょうか。
これも、わたしの想像でしかありません。ネガティブなことが思い浮かぶのは、彼女を「悲劇のヒロイン」にしたいわたしの勝手な妄想で、楽しい思い出でいっぱいならもう何も言うことはありません。
しかし、もし悲しい思いや辛い思いをしていたのなら、何とかならなかったのかと思います。
なぜ彼女は、低俗な悪意に晒されなければならなかったのでしょうか。
ちなみに、この感覚をまざまざと思い出させてくれ、さらにその先のことを考えるきっかけをいただいたのが『アルジャーノンに花束を』です。
セーフティネットはどこにいったのか
わたしは憤るばかりで、何も知りませんでした。
もう一つ大きな衝撃を受けたのが、こちらのひとみさんの有料note。
障害者雇用、就労継続支援事業所のA型とB型の違い。
言葉として聞いたことはあるものの、詳しいことは全然わかっていませんでした。
世の中が発するメッセージとして、「大幅な”ハズレ値”のポジティブなほうを引いたら成功者。ネガティブなほうを引いたらお気の毒。」そんな風にわたしには見えます。
最初に挙げた、ひとみさんの渾身のnoteにこんな一文があります。
貴方が独立したら、元のか弱くて可愛いワタシに戻るのかな…?
仕事を辞め、「障がい児の親として生きよう、と決意した」ひとみさん(「」内は文中の表現を引用)。そして、その決意はたくさんのものと戦う決意だったのだと思います。
以前の自身では考えられなくらい、果敢に戦ってきたのだと思います。ですが、この「戦い」は、冒頭に挙げたような自身が生きていくためとか、成長のための「戦い」とは性質が違うようにわたしは感じます。
本来、その戦いはしなくてもよい戦いになっているほうが、健全な社会だと思います。歪んだ収益システムで私利私欲を満たす旧態依然の組織が少しずつ崩壊しています。それでも、本当に支援が必要な人のところにはなかなか回りません。
もちろん、だからと言って世捨て人になろうとは思いませんし、かといって、活動家になるわけでもありません。*このくだり、完全に映画「逆襲のシャア」のアムロとシャアの会話でした。
わたしは、引き続き、自分の手の届く範囲で理想に近づくための「仮説と行動と検証」を今日も続けています。
ひとみさん、いつもメンバーシップで活発に活動いただきありがとうございます!
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