笑顔のチカラで走る
頭上で大きな声が聞こえた。私の名前が呼ばれている。
「〇〇さん、頑張ってー!」
見上げると歩道橋の上から、赤いマリオの帽子を被った人が私に大きく手を振っている。私は右手を挙げた。
スタートして1時間半。18km地点のJR舞子駅を過ぎたあたり。歩道橋の下を一瞬で走り抜けた。声を掛けてくれた人の視線を背中に感じながら、自分はきちんと笑顔を返せただろうかと気になった。
神戸マラソン
2万人が参加する神戸マラソン。三ノ宮の神戸市役所をスタートして一路西へ進む。須磨海岸を左手に見ながら走り続けて、JR舞子駅を少し過ぎたところで折り返す。神戸ポートタワーを過ぎて38km地点から急坂を駆けあがり浜手バイパス、そして神戸大橋を渡ると40km。ポートアイランドに上陸すると残り2kmでゴールだ。
2011年に初めて開催されたこの大会のテーマは「感謝と友情」。神戸の街は1995年の阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた。手を差し伸べてくれた世界中の仲間への感謝を伝えたいという思いが込められている。
スタート前に全員で黙とうする。アナウンスとともに、周囲のざわめきが消え去る。高揚した気持ちがすっと静まった。
黙とうが終わった。事前に用意された黄色い手袋をはめた。感謝の気持ちを伝えるために両手を高く掲げる。
学生の頃、がれきの山と化した神戸の街を歩いたことを思い出した。あれから28年。街も人々も、自分も、長い年月をかけて一歩ずつ歩み、変化してきたことに気づかされる。
沿道の応援は60万人を超えると言われている。たくさんの人がランナーに声を掛けてくれそうだ。できるだけ笑顔で応えよう。
スタートの号砲が鳴った。
笑顔の効能と科学的根拠
ランニング中の笑顔の効能については実験結果がある。
2018年1月の「Psychology of Sports and Exercise 」の記事によると、ランニング中の表情がランニングエコノミーに影響を与えるという。ランニングエコノミーとはここでは「燃費」のこと。人は身体に取り込んだ酸素を消費して走る。できるだけたくさんの酸素を取り込み、できるだけ少なく消費することで燃費はよくなり、疲れを感じずに長時間走り続けることができるのだ。
実験ではトレーニングを積んだ24人のランナーが集められたという。余裕のある強度で6分間のランニングを4セット実施する。ランナーには毎回、表情や仕草を変えることが課された。それは、「自然な笑顔」、「努力している顔(しかめっ面)」、「意識して腕や上半身をリラックス」、「集中している顔」だ。
結果は、「自然な笑顔」で走った時が最も酸素の消費量が少なかったという。つまり、無駄のない走りができたということだ。
これは自然な笑顔によって身体の筋肉の緊張がほぐれ、スムーズな動きができるようになることや、呼吸が楽になることなどが要因として考えられるようだ。
そういえば、東京オリンピックで優勝したエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)は走っている間に頻繁に笑みを見せる。30kmを過ぎて苦しい場面でもにやりと白い歯をこぼす。
雑誌のインタビューで、レース中の笑みについて問われ次のように答えている。
なお、実験結果によると、笑みは「自然」であることも重要だそうだ。口や眼球、頬の動きが不自然な作り笑いでは効果がないのだ。
苦しい時に
沿道の応援は盛大だ。年配の人から子どもたちまで、大きな声で一人ひとりのランナーに声を掛けてくれる。
27km地点。再び私の名前が呼ばれた。前方に赤いマリオが見えた。15mほど手前の沿道から大きく手を振ってくれている。舞子駅から電車で須磨駅に移動して先回りしてくれたようだ。駆け抜けるランニング仲間を順番に応援しているのだろう。通り過ぎる瞬間、精一杯の笑顔で手を振った。
仲間たちのペースは人それぞれ。この後やって来るランナーの位置情報とJR神戸線の時刻表を見比べながら走り回っているのかもしれない。想像するとうれしくなって、笑みがこぼれる。落ちかけていたペースが少し戻った。
38km地点に近づくと急な登りが始まった。タイムはこの時点で3時間3分。ここから2kmの区間に浜出バイパスと神戸大橋を渡り高度を25mほど上げる。それを越えるとゴールのポートアイランドが見えてくる。
できれば3時間25分を切りたい。少なくとも3時間28分の自己ベストを更新したい。
バイパスや大橋は一般の人は入れないが、代わりに大勢のボランティアスタッフが待ってくれていた。一番苦しい急坂では黄色いジャンバーを着たスタッフが数m間隔で並んで、通過するランナー一人ひとりに大声で応援してくれる。
両足の太もも裏のハムストリングスはすでに何度も、ぴきぴきと痙攣を始めている。
「頑張ってください!あと少しです!」
何度も声を掛けていただき、その度に笑って手を挙げた。顔は引きつっているが不自然ではないはずだ。素直にうれしかったからだ。
神戸大橋を下り、ゴールまでの1km少しの沿道の声援は途切れることなく続いた。誰もが大声を出して手を振ってくれる。
笑顔のチカラ
ゴールを駆け抜けた瞬間、待っていたかのように両足が攣ってしばらく立ち上がることができなかった。
目標には到達できなかったが自己ベストは更新できた。タイムの推移を分析してみると、苦しい38km以降もそれほどペースを落とさずに走り切れたことが分かる。前回のレースと比べると最後の4kmは2分短縮した。
振り返ってみると、苦しい時でもマラソンを楽しいと思いながら走ることができた。それは大きな声援に自然な笑顔で応えることができたからかもしれない。
今までは笑みを浮かべること自体がエネルギーを消費するものと考えて、あえて集中した顔で走っていた。でもそれは間違いだったようだ。
マラソンはよく人生に例えられる。人との関わり合いの中で自分に掛けられる言葉を受け止めること。その気持ちを素直に表現して相手に伝えること。笑顔は互いのチカラになって、人と社会を前に進めていく。
自分に欠けがちな笑顔をもっと自然に表せるようになろう、そう思った。
(参考WEBサイト)
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