「視点がない」生き方に教えてもらったこと
先月は派手な移動が多く、心の揺さぶりも大きかったです。
私という人間はとても素直で吸収しやすいタイプなので(自分で言う)、珍しいもの、初めて体験すること、なんでも「うわあすごい」「おもしろい」といちいち瞬発的に感動しています。
けれども、そうやってなんでも「見よう」「体験しよう」と思っていること、違いに面白さを見出そうとする瞬間から、こぼれ落ちていくものものある。そんなことにも気付かされた旅でした。
先日は、東京滞在の合間に、念願のこちらへ。娘を誘ったら「いく!」といってくれたのも心強くて、とてもうれしかったです。
ドラマ「ラストマン」、熱心に見てはいなかったのですが、プログラム自体にドラマの制作現場を少し身近に感じられる仕掛けが散りばめられており、エンタメを入り口に学ぶことの面白さを改めて実感しました。
さて、実際に体験してみた暗闇の世界。
それは、今だ見知らぬ自分の身体性、その奥深い感覚を呼び覚ますものでした。
どんなに目を凝らしても何も見えない暗闇の中で、一緒にツアーを体験した人の声や足音は、私の目となりました。足裏から、こんなにも感触の違いがわかるものなのかと驚きました。白杖を床に当てた時の音すら、相手との距離や空間を把握するための重要な情報となりました。
見えなくても、というと語弊があるかもしれないけれど、見えなくても体があるかぎりなんとかなる。
自分の体の感覚を拡大し、それを信頼して生きる。まるで、背中から羽のように感覚を広げ、伸ばすような感覚。
ダイヤローグインザダークは、見えない人たちがガイドとなり、私たちの創造性、見えない世界の広がりを教えてくれました。
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見えないという身体的特徴について、わかりやすく考察してくれているこちらの名著。
著者の伊藤亜紗さんのわかりやすくのびのびとした文体に、まず感激。そして、ダイアローグインザダークを体験した後に読んだ自分を、褒めたいと思いました(長いこと積読してたやつです)
暗闇での自分の体験を振り返りながらこの本を読んだとき、伊藤さんの考察は、それはそれは腹落ちするものばかりでした。
たとえば、見えない人には「視点がない」という指摘。
見えないということは、たとえば「表」や「裏」などに対する偏見がないということです。
「特定の視点に縛られることがない」見えない人は、「自分にとってどう見えるかではなく、諸部分の関係性が客観的にどうなっているかで把握しようとする」のだといいます。
自分の、暗闇での行動を思いだします。
私は、あらゆる音や感触を頼りに部屋の位置関係を把握し、すり足のような歩幅でとぼとぼ進んでいくしかありませんでした。
目の前に見えている世界には、自分が「これはこういうものだ」という意味付けがあり、それにより予測が立ちます。
しかし、視覚がない世界では、目の前にあるものは、正面があって裏があって、奥行きがあるものではなく、
手触りであり、大きさであり、位置であり・・・とつまり、情報でしかない。
もう、本当に、驚きです。私たちが、目に見えるものを「こうだ」と捉え、安心しているか。いかに、意味付けの世界を生きているのか。
呆然とするしかありません。
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本書で紹介されていたこの言葉には、さらにハッとしました。
ーーー「見ようとする限り、必ず見えない場所が生まれてしまう」。
たとえば、私たちが視聴覚障害を持つ人たちと接するのであれば、彼らになんとか手を差し伸べたい、そうすべきだと考えてしまいがちでしょう。
無論、困っていればなんらかのアクションがあって然るべきですが、彼らには彼らなりの世界の捉え方があり、また自分なりに構築した、自分の身体的特徴を活かしていくすべが、既にあるわけです。
なんとか助けてあげなくては、と思うことが、私たちの勝手な、一方的な意味付けになっていないか。
その意味づけが、「多様性を認める」ことと混同され、「特別視すること」につながっていないか。
この本の中でも強く指摘されているこれらのことに、私はどれほど無自覚であったろうか、と感じます。
私たちはほとんど、自分なりに取り繕った「意味」を生きているのだと思います。
物事をどう解釈するか、どんな意義や価値があるのか。それを判断するのは私自身で、他の誰でもありません。
私にとって見えない世界が教えてくれたことは、意味と情報を行き来しながら認識していくことの大切さ。
伊藤さんが冒頭で
「見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります」
と述べるように、
お互いに好奇心を持つことは、見える・見えないにかかわらず、私と相手を対等に捉えることともすごくつながっている気がしました。