モネの連作に見る民主主義の時間VSウォーホル「キャンベル・スープ缶🥫」の無機質時間
これ⬆️は我が家の前の
息を呑むような美しい景色
アルバムを振り返って もっと探すと
娘が撮ったベストの一枚だけを残して消去していた
「分別」したんだな
娘♡ カメラで賞も取ってますから
でも……
全部違うのだ 日光の角度とか
そして⬇️これは奈良 曽爾高原
愛娘と景色の一期一会
その瞬間しかない一回の写実性
その時に娘と見た夕日🌇
我が家のわんこの戻らないpuppy時代
しかし
なぜ
これほどまでに
モネは同じモチーフを描き続けたのか
同じ場所に拘る必然性は?
主題がそこ(場所)にない
ということ
そこにあるのは現れ=現象
つまり 時間
モネは
ターナーは時間を見ていた
失われないように
その瞬間は一度きりだからだ
モネの「積み藁」⬇️を見て
ロシアの画家 カンディンスキーも
同じことを思った
そこにあるのは「時間」=音楽=生命
=
「『自然の法則』に従って
前進することを強いられる」有機体
(カンディンスキー「点と線から面へ」)
モネの連作が一枚の絵になると
こうなる
現れの無常は時の前進性
かくも
これだけ描き続けられたものだ
朝から夕
春夏秋冬
何年も何年も…
モネは
エトルタに1883-1886滞在
睡蓮を1890-1920
ポプラ並木は1890s
ルーアン大聖堂は1892-1894
描き続けました
前稿に書きましたが
印象派は1920sになっても評価は低く
作品として売れなかった
評価されなくとも
何十年と描き続けられた連作
この執念 なんでしょう?
無分別というのでは?
そうかもしれない
皆さんも子どもの写真 いったい
何枚撮りました?
何百枚 何千枚
春夏秋冬
何年も何年も…
ルーアン大聖堂
ポプラ並木
そんなにええか?
あんたの子どもそんなにええか?
愛していたからですよね
子どもとのその瞬間を
子どもの成長を
無分別にも (笑)
モネも
風景を 時を
愛していたのでしょう
時間
それが民主主義の要だった
アゴラ(広場) で時間をかけて対話を重ね
異論を楽しみ
他者と熟議しながら
意見を擦り合わせていく
時間性が民主主義の良さだったのだ。
バッハのコーヒーカンタータだってそう
あれ 娘との可愛い喧嘩でしょう?
でも
時間は失われた
待てなくなった
産業革命がスピードを要求し
都会に出てきて働く労働者の時間は
自然の時間とかけ離れた
バルザックが
フランスにおける
ジャーナリズムの「幻滅」を写実的に描いたが
ジャーナリズムが生んだその大衆性は
北斎の「富嶽三十六景」をも
➕10枚の46枚とし
プロダクト=商品化
もともと
時事を伝え
巷の流行を教えてくれるメディア
美人画=ファッション誌でもあり
消費欲求高まる大衆性を満たす存在
だった浮世絵は
新聞紙=包装紙 ゴミ同様の扱いをされたがゆえ
フランスでジャポニズムが沸騰
(フランスへエクスポートされた荷物の
包装紙に浮世絵が…)
そして 浮世絵の影響により
対象を写実的に認識する写実絵画から
「認識」を対象とするフランス印象派へと
流行が変わった
日本の浮世絵はその意味でまさしく
媒体=メディアだった
写実主義的絵画の
客観的しかし絶対的「一回性」の解除は
主観の絶対性へと移行し
ユクスキュルが重んじた
「生物から見た世界」の異種性
つまり
有機体=自然の多様性=他者性の視点は
今西錦司の種秩序 ニッチ争いばかりが
焦点のような「同」を重んじる世界となり
誰もが知ってる「大衆性」
通俗、世俗、流行、普遍性が
客観=絶対となった
異変=異=変なるものが厭われる時
時間が消え
民主性は喪失されていく
そこに
時間と闘った印象派画家たちはいた
次にこれを⬇️見て頂きたい
謂わば、同じ 連作
アンディ・ウォーホルによる
32種すべて異なるキャンベルスープ
ほら⬇️
その32の配列を変えた作品がこれ⬇️
時を超越する大衆性は
無機質な記号 でも平等
ボードリヤールの世界
では
モネの連作 「睡蓮」の配置を変えて見よう
3x4=12枚 は配置換えするとこうなる
世界は変わる
これが民主主義に大切な時間
以上は
モネの連作を繋げ
アソシエーションのバリエーションを作成し
その偶然の確率に遊んでいたことからの
気づきです
もともと統計調査が専攻なので💦
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