「ミツコでないのにミツコ」逆立ちしたヘーゲル弁証法とマルクスの反転を漱石に読む
2人の男性
①「お⁉️ともちゃん ESTĒE LAUDER
ビューティフルやね」
「おーすご〜い✌️ わかるんやね💋」
=普通☝️
②「あなたはバニラ(の実)でないのに
バニラの香りするのおかしい」
=至極 真っ当🫡but. 普通じゃない👏
確かに
私は
ESTĒE LAUDER ビューティフルではないし
バニラでもない
私は私だ
だから
薔薇でないのに
薔薇の香りを放ったり
ミツコのために作られた香水
「MITSOUKO」を
ミツコでないのに身に纏うのは
なりすまし詐欺 だ
と言うことになる
カインズに行った
ジャスミンの香りがする
なんで?
あまりにもリアルに香る
ジャスミンのペットシート
が新発売
買って帰る
ジャスミン「調」の香りが屋内外に漂い
もはや
屋内からのフェイクか
屋外からのリアルか
識別できなくなり
今年は
鼻=自然 がリアル・ジャスミンを楽しめなかった
ので
来年から買わない👊
我が家の庭🪴に咲く
満開の自然のジャスミンのあの芳しい香りを
味わえなくてどうする?
ここで
上記
①と②の男性の言を再考してみよう
本当は
①が普通でなく
②が普通なのだ
なのに 我々は先ほど
①を普通
②を普通でない
と転倒して解した
私は ESTĒE LAUDER ビューティフル でもなく
バニラでもない
つまり
②の男性が正しいのだけれども
魔法にかかっているため
メタファーで始まったメタファーが
メタファーでなくなっても
気付けてない我々が間違ってるのだ❣️
罪と罰
損害と保険
商品A =$$$
全ての概念の
等しからざるものの等置 (ニーチェ 哲学者の書)
に
思いをを馳せることができなくなっていて
それゆえ
無事 資本主義経済や法制度が見事に成立ー機能している
異なるものに異なるものを掛け合わせ
否定に否定を重ね肯定に導く
ヘーゲルの弁証法の逆立ち
がマルクスには見え
それに大どんでん返しを加えて
相異なる価値を
等価とする法哲学や経済を
疑問に付したのがマルクス
ヘーゲルの法哲学で言えば
ペットの死=保険
=別のペットで保証 or保証金
は
異なるものに異なるもの
だが
「相等」と思えば「相等」
従って
(最初買った)あの子はあの子でしかないから
保証金なんて要らない というのは
この世のバカ✊
そーんな
表裏を
こてんと
ひっくり返したマルクスの「資本論」を
一体
どれだけの人が実際に
手に取り読んだのだろうか
マルクスについての〇〇さんの本は
〇〇さんの本でしかなく
ヘーゲルの凄さも
マルクスの本心も
ヘーゲルを マルクスを
生で読まねば
絶対にわからない
だから
マルクス「資本論」を
初めて
生で読んだ時のあの衝撃‼️
今まで聞いてきたマルクスと全く違うではないか
これはなんだ???!!
当たり前だ
誰もマルクスの平面に昇っていないのだから😰
私はこの時から他者の噂話を全く信じなくなった😇
マルクス「資本論」とは
単なる経済の書ではない
泉鏡花のお水の世界にも出てくるような
等しからざるものの等価交換の告発
「関係」の魔法の書
そして 柄谷行人が
「マルクスを読むように」
漱石が読めると
彼の著書「マルクスその可能性の中心」に
漱石試論を入れたように
漱石の「道草」や「追分」…etcは
まるで文学の「資本論」
「資本論」を現した日本文学
裕福で人情深い中野の100円は
貧乏で肺結核の高柳の100円でも
高慢な作家 白井の100円でもない
中野の親友、高柳の病気療養を想ってあげた100円が
高柳の尊敬する文学者、白井の100円の借金返済へと
代理されていく夏目漱石「追分」
100円=
中野の高柳への友情
⬇️
高柳の白井への尊敬
⬇️
白井の借金返済
⬇️
⬇️
白井 借金返済完了
お金=経済とはとどのつまり
ひとの想い
夜店に我楽多として幼児期に陳列されていた漱石は
作家として名有りとなった才能ある漱石の一生
「おれにはおれがある。
このおれを出す機会」 (「追分」)
を文学に得た漱石が
「ただ自分らしいものが書きたい」 (「彼岸過迄緒言」)
と言って得た印税に
金をせびる他人の想いが寄ってたかったそうで…
「追分」同様
その金は
何に代理されて行ったのであろうか
交換原理に
「Passion=受苦ー情熱」 (inマルクス「経済学・哲学草稿」)
と「空腹」 (inマルクス「経済学批判」序説)
を見たマルクスの先見性
そして
それを文学で表現した漱石
凄いと思われないだろうか
高柳は中野の学生時代からの親友
でありながらも
彼の貧困よりの受苦が
裕福な中野と本当の意味で相容れず
中野の100円を理解することは
決してできなかったのだ
この漱石に描かれた
中野の愛による消費
非連続が高柳へ連続したことによる喪失=疎外を
経済学として著したバタイユの名もここで記しておきたいが
漱石はそれを小説でやっちゃたものすごい人なのだ
だから
漱石やマルクス そしてバタイユが
他者に理解されなかったのは当然だ
柄谷行人もアカデミズムより
相当批判を受けたと聞く
真っ当なマル経では読めなかったマルクスだからだ
以下 参考まで