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ディケンズ「信号手」、カポーティ「ティファニーで朝食を」に見るスピノザの必然
「願わくば、私が客体でなく主体であらんことを」
アイザイア・バーリンが祈りのようなこの言葉を吐く時、
人間と
山を転がり落ちる石との違いは、
人間は自分の運命の主導権を握っていると思いたい
点だけと言うスピノザの見解を否定したい気持ちでいっぱいだったろう。(in ヘンリク・ヴァルターNeurophilosophy of free will)
しかし
遺伝子学者は
我々は
歩くタンパク質であり
ジーン(gene=遺伝子)であり
ミーム(環境遺伝子)であり
生まれと育ちというふたつの因子の関係の混合物だという。そして
ウィリアム・ジェイムズは「意志の自由が真だと証明しようとする一切の主張は、初めから堂々と放棄する」と宣言。
「せいぜい望むのは、私に倣って意志の自由が真だと仮定してみようと思う人がいくらか出てくることぐらいだ」(in The Dilemma of Determinism)
あくまでも
そう思いたい
思いたいのだ
(「やわらかな遺伝子」マット リドレー著)
カントは
意志の自由が否定される帰結が引き出されるといった観点からスピノザを批判し
(in「スピノザと近代ドイツ」)
対象「を」認知できずに
認知「を」対象とする
認知にとっての「を」を捨て去ることはできなかった
シェリングも
スピノザの存在=必然に対し
存在=自由を訴え
ハイデガーも「シェリング講義」で
何度も何度もそれを強調している。
みんな みんな
ひとは 何かを変える力をもち
何かができる
そう思いたい 信じたいのだ。
でも
例えば
「ティファニーで朝食を」のホリーは
誰よりも分かっていたのかもしれない
どんなに愛されても
自分は野生でしかあり得ないことを
例え誰かを愛していたとしても。
「野生の生き物に深い愛情を抱いたりしちゃいけない。心を注げば注ぐほど、相手は回復していくの。そしてすっかり元気になって…もっと高いところに止まるようになり、それから空に向けて飛び去ってしまう。」
「そうなるのは目に見えている」
と彼女は
本性や育ちは変えられないと言っており
彼女自身が
愛する猫を自らの手で手放してしまったのだ
「ああ、神様。私たちはお互いのものだったのよ。あの猫は私のものだった」
彼女自身の行動によって
最も傷ついているのは当の本人なのだ
「私は怖くてしかたないのよ。ついにこんなことになってしまった。」
でもどうにもできないのだ。
「いつまでたっても同じことの繰り返し。終ることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかる」
(「ティファニーで朝食を」カポーティ著)
ディケンズの「信号手」に至っては絶望的だ。
全ては偶然ではなく必然なのだ
「どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
「え。私がそんなようなことを言ったかな」
「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
何か不吉なことが起きると分かっていたのに
〜〜〜
「トンネルの曲線まで来たときに、そのはずれの方にあの男が立っている姿が遠眼鏡をのぞくように見えたのですが、もう速力をとめる暇がありません。また、あの男もよく気がついていることだろうと思っていたのです。ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、精いっぱいの大きい声で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒しているのです」
「なんと言って呼んだのです」
「下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ退いてくれ。……と、言いました」
彼は自身の力で運命を変えたかった
でも変えれなかった
自由意志の世界では
「人間が消える。
モノとその真理だけが残る」
(in帯文「スピノザ考」上野修)
わかっていたのに
下の人に何かが起きると…
—『世界怪談名作集 06 信号手』チャールズ ディケンズ著
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