「愛」の断捨離。
生まれて初めて「推し」のコンサートに行った。
「推し」はこれまで何度もテレビやYouTubeで見たそのままで、いや全然それ以上、まさに完璧に1秒もぬかりなく期待通り最高のステージを見せてくれた。全部の瞬間がかっこよく、ずっと幸せだった。
だからこそ、突きつけられたのは「現実」だった。
「むなしい」。
そこは自覚して一線を超えないよう心がけていたつもりだったけど、いつの間にか思った以上にハマってしまっていたらしい。
すぐ近くで、期待通りの笑顔で、期待を超えたパフォーマンスをするその人は、私が推してようが推してなかろうが、それどころか、私が存在しようがしてなかろうが、全く関係なく笑顔でいるのだ。そう、あの空間に集まった数万人が全員違う誰かであっても、同じ笑顔で、同じ最高のパフォーマンスをするのだ。いつでも等しく期待した笑顔を見せてくれる人というのはつまり、こちらの人生には全く関係のない人だということだ。
もちろん、そんなの当たり前のこと。
だからこそ、「推し活」は私の「心の支え」であってはならない。
引き続き推し活を続けたいのならば、まずは自分の生活を充足させなければならない。
最高に幸せな推しとの初対面は、なんだかそんな漠然とした、しかし改めて考えるとほんとうにごく当たり前の事実を改めて突きつけられた時間でもあった。
ありあまる愛
数年前、タイミング的に子育てがどんどん忙しくなっていく友人たちを横目に自分のやりたい仕事や挑戦したい夢に全振りしている自分を顧みて明確に自覚していたことがある。
「愛」があまっている。
やりたいことをやれている。ぶっ倒れそうになるくらい全力で、夢だった仕事に必死で取り組んでいる。毎日が充足している。でも、「愛」は余っていた。
おそらく一般的には自分の子どもや、配偶者に注いているはずの愛。あるいはその前段として、配偶者になる可能性がある人に注ぐはずだった愛。もしくは、いつも私を心から心配してくれる両親や家族、友人へと還元すべき愛。そういう愛をしかし、持て余していた。私の24時間をフルに使って全力で生きている筈なのに、夢とか希望とか成長や変化とは全く別の話で、「誰かを愛でたい」、「大切にしたい」。誰かのために時間を使い、誰かのために心を込めた行動をとりたい。そんな気持ちが明確に存在していた。
そんな、「ありあまる愛」を無限に受け止めてくれる装置として「推し」は適切だった。
愛は生きていると自然に分泌されるのに、人間が自分ひとりだけでは消化できないものだ。うまく自分をコントロールしているつもりでも、どこかのタイミングで、誰か・何かに向けて排出しないと生きる上で支障が出てきてしまう。自分自身が愛で溢れて破裂してしまわないようにするために、消化し続けなければならないものなのだ。
だからこそ推しの幸せを願い、推しのために泣き、推しのことを思って過ごす日々は素晴らしい。誰かを愛することの充足感。ただひたすらに幸せを願って、行動して、一喜一憂すればいい。だって相手は私という人間の存在すら認識していないのだから。ただ一方的に、体の中にどんどん堆積していく「愛」を消化できることの幸福。
それを自分の周囲の人に向けることを、意図的に避けていたわけじゃない。ただ、知らなかったのだ。そういうものだとは。誰かのために愛するんじゃない、愛は誰かの役に立つためのものじゃなく、自分のために消化していくべきものだとは。
「愛」の消化方法として
持て余していた私の愛を、推しで消化してきたこの数年間が間違っていたとは思わない。なんならあの日、客席から全力で黄色い声を出し、12倍の双眼鏡で隅から隅まで推しを眺め回したあの数時間だけでも、心の奥底であまりに長い時間溜まりすぎて、凝り固まってしまっていた「愛」までもすっかり消化させてもらえた気がする。
そして今。
いつぶりかわからないくらい久々に、溜まった愛を断捨離しきって、余裕が生まれた心で思う。これ以上、私の愛の投棄場所として今のペースで推しを愛でていると、いよいよ「帰って来れなくなる」な、と。
結局、向き合わねばならないのはいつだって自分だ。愛は誰かのためでなく、自分のために「消化」しなければならないもの。それを踏まえて、私はどうしよう?毎分毎秒、止めどなく湧き出し続ける私の愛を、誰に・何に対してどう注いでいくか。きっと多くの人にとってはごく当たり前の、しかし私にとっては衝撃的なそんな課題が、いま私の目の前にある。
自分の愛の適切な消化ができるようになって、それでもやっぱり持て余していたら、あの空間へまたありあまる愛を消化しに行きたい。いつかはわからないけど、そして二度経験できるかはわからないけれど。次に客席から推しを眺める時には、こんなことを気にせず、全力で愛を消化できるんだろうか。そういう意味でもまたコンサートに行きたいと思うし、単純にまた推しの笑顔とパフォーマンスを生で見たいとも思う。
「推し」を知り、目が離せなくなり、自由な時間のほとんどを過去動画やSNSに大量投稿された過去の掲載誌の切り抜きなどを見ることに費やしていた頃、ついに生で推しを見られた時、こういう気持ちになるとは予想だにしていなかった。
とはいえこうして大切な気持ちを呼び起こしてくれる「推し」は、やっぱりとっても大好きだ。