人生初富士山登山と今西錦司再読
台風一過の日曜日。
念願の富士山に行ってきました。
登山といっても五合目まで車で行って、そこから横にずれるだけです(笑)
御中道(おちゅうどう)と呼ばれる道で、登るというより、散策に近い感じ。
という事前情報に安心して、ほぼ準備とかトレーニングとかなしに臨んだんですが。
登山して身体が変化した!
確かに、あまり登る必要はなかったんですが、時々長ーくダラダラ歩く道になったりすると、すぐに息が上がる。五合目辺りになると酸素が薄いからなんですかね。
下界だったら「別に」って感じの登り坂。でも、五合目だと心臓の音が半端ない。「えらいこっちゃ!はよ血送りこまなんだら死んでまう!」くらいの勢いで、心臓が頑張ってくれたんでしょうか(笑)
富士山には砂利がたくさんあって、砂利道を延々歩いていくことになります。それに、山道だから凸凹が多い。
下界に降りてきたら、歩くのがすごく楽ちんで驚きました。普段はこうやって隙だらけで歩いてるんだ〜、と気づいて苦笑。
でも、歩くのに集中しなきゃ危ない状態で歩くのは、いつの間にか全力で歩いていることになる。
これは、めちゃくちゃ身体が活性化しそうです。普段ぼーっとして半分眠っているあちこちが、はっ!として急に働き出した感じです(笑)
その他、目はよくなるわ、鼻は効くようになるわで、驚きはまだ続いています。
それにしてもこの登山の爽快感、本当に得難いものがありますね。
登山が趣味だった父は、家では怖い頑固オヤジでしたが、山に登ると性格が一変するようで、どの写真を見ても家ではみたことのない爽やかな表情を見せていたのを思い出します。
今西錦司『自然学の提唱』
最近、今西錦司を読み直しています。やはりこういったフィールドワークを大切にする方の哲学は、腹が太くて、豪快で、本当に読んでて気持ちがいい。
今西さんは、生物の誕生を「創世の神話」だと言い切り、自然淘汰や生存競争ではなく、「生物は変わるべくして変わる」という独自の進化論を打ち立てられました。
さらに「自然科学は部分の探究でしかなく、全体の自然を説明した学問がない」ということで、晩年「自然学」を提唱されました。
自然とは何かを追求するには、西洋的ななんでも切り刻んでいく「部分」の探求ではなく、全体の自然を対象としなければならないーー。
それを生涯にわたって様々な角度から検証し、探求し続けた今西さんは、真の科学者であり、哲人だな〜とつくづく思います。
明治生まれの今西さん、そもそも私たちのようなひ弱な体をしてないのは間違いないのですが、それにしても、「自然とは何か」という問いに応えてくれるものなら、どんな分野でも、何でも学ぼうという姿勢や、思い切りの良さは一体どこから来ているのだろう、と思っていました。
「清濁飲み合わせる」という言葉がありますが、それを実行しようとすれば、やはり腹が太くないとできません。
フィールドワークを大事にして、不測の事態でも臨機応変に対応できる力。それはおそらく、山で鍛えられた部分も大きかったのではないでしょうか。
「山」という全体を一体どう捉え、伝えたらいいか。
「山」を愛し、足繁く通い、山や自然、風景を俯瞰して見た体験が、全体としての自然を考えるという発想にも大きく貢献しているのではないでしょうか。
*松岡正剛さんの『千夜千冊』にも収められています。もう20年近く前に書かれていますが、未だ新鮮な書評だと思いますので、よかったらぜひ。
御中道でヒーヒー言いながら、そんなことを考えていました。
山の力ってすごいな。
登山してたら、何かが変わりそうです。連れて行ってくれた友人に感謝。
んで、またぜひ行きたいです。
*多少なりとも空気感が伝わったらいいな、という気持ちを込めて、写真を。(苔多め)