深い穴、ミスコミュニケーション
最近、新たな仕事を引き受けた。お客様と、今までとは違う関わり方をする仕事。初めてのことなので、いろいろ想定外だらけで、かなり久しぶりに体調が厳しくなっている。
こんな時はまず睡眠、と思い、早々と布団に入った。
しかし、こんな時に限って、買ったまま放置してある本に目がいく。ちょっとだけ、と思ったのに、結局最後まで読んでしまった。
「いつか深い穴に落ちるまで」
この本は、noteでどなたかがお勧めしていた。
深い穴ってどんくらい?と思ったら、日本からブラジルまで。それを、戦後まもない頃、運輸省の官僚が思いついたという設定。そして、立ち消えになりそうになりながらも、数十年かけてプロジェクトが進行していくという話。
この、不思議きわまりない話を淡々と描いている作者にも興味をそそられたけれど、一番印象深いのは、穴を掘る会社の広報担当の「僕」が、日々穴に関することを取材し、記事を書き続けていること。
それを上司に提出するんだけど、ちゃんと見ないでデスクに仕舞い込む上司もいたりして、結局役に立ってるのかどうかわからない状態のまま、律儀に数十年間それをやり続ける。
誰にも届かないかもしれない声。
ふと、故郷にいる認知症の母を思い出す。
最近、「私は自分のところに帰るから」と言って、荷物をまとめているらしい。「どこに帰るの?」聞いても、本人も、よくわかってないらしい。
ただ、嫁入りしてから50数年近く経とうというこの家は、もう、自分の居場所ではないと決めつけているようだ。
そうか、母は、この「僕」みたいに、誰にも届かない声を出し続けていて、いつかここではない場所に私はいくんだ、と思っているんだな。
正確には「僕」は、その穴を通ってブラジルに行けばそこには新天地が広がっている、とは考えてない。
「僕」は、誰にも届かないかもしれない文章であっても、仕事だから、と割り切って克明に書き綴っていく。
でも、それにしても、「いつかは」という思いがある。いつかは、日本とブラジルを結ぶ穴ができるはずだ、その時には日の目を見ることもあるかもしれない、と。
母は、コールしたら、レスポンスが欲しい。
コールして、叫んでいるのに、誰も私のこと聞いてくれない。だから、私の考えがスッと通るような、もともと私がいたような世界に戻りたい。
母は、そう思っているのではないか。
本当は、誰も理解しあってなんかいないのかもしれない。
認知症だから、ではなく、元々考えがスッと通るなんてことはあり得なかったのかもしれないのだ。
家族であろうが、会社であろうが、人が複数いれば、おそらくそういうことは、多かれ少なかれあるだろう。
ただ、みんな「わかってるよ」というふりをするのは得意だ。そして、その振りが、実は意外に大事な役割を示すことも知っている。
そうなのだ。
「わかってるよ」のフリが意外と大事なのだ。
「わかってるよ」「わかりあってるよ」という振りは、日本とブラジルを繋ぐ深い穴みたいなもの。繋がるかどうか全くわからない、ごくわずかの可能性なのに、「僕」が毎日記事を書き続けているようなものだ。
その、薄い可能性の光は、実は自分とのコミュニケーションにおいて、ものすごく役に立っていた、ということなのかもしれない。
母は今、ひとりミスコミュニケーションの穴の中にいる。少なくとも本人はそう思っているようだ。
でももし、穴から抜けられる可能性が見出せれば、実現不可能に限りなく近くても、薄明かりがチラッとでも見えてきたら、何かが少し変わるのかもしれない。
この本の趣旨とは随分違うけれど、そんなことを思いながら1日過ごしてしまった。おかげで、体調は元に戻りつつある。
*ついでに、深い穴を掘ることについて、こんな記事を見つけました。
穴を掘るのは、宇宙と同じように人類のロマンなのかも?