介護体験

熊本地震の後、ほどなくして両親の介護が始まった。長いこと、熊本の実家には帰ってなかったが、東京で脳出血を起こして入院、熊本の病院に転院となった。ニ級身体障害者の右半身麻痺という大きな障害が残ったが、結局、両親の元に戻ることになったのだ。

あまり帰ることもなく、20年近くも離れていたので、久しぶりに見る両親は当然、老いて見えた。近くの診療所の定期検診で、最初に軽い認知症と診断されたのは親父だった。老いはとても早い。すぐに、足腰が弱ってほぼ寝たきりとなり、オムツが欠かせなくなって、生活にも介助を必要とした。

認知症の進行も早くて、毎日、昼夜逆転、夜中に甘えた声を出して母親を何回も呼ぶ、その割に昼間は母親に暴言を吐くなど、辛く当たる、夢を見たと泣きじゃくる、妄想を現実だと思い込む…等、認知症の症状だと思われる醜い行為が繰り返されて、介護をする母親や俺はかなり疲弊した。

そして、地元の病院に入院となって、やっと手が離れた。老いはこんなにも人を醜くさせるのかと俺は何回も感情を爆発させた。脳の老化の一種である認知症を患っているから、感情のままにどんなに怒っても無駄だということはわかっていたのだが、親のこととなると、どうしても感情が先走りしてしまう。もしかしたら脳出血の後遺症もあったかもしれない。

とにかく、できることをやるしかないので、片麻痺の身体でリハビリだと思い、親父の介護を続けた。その後、親父は心不全で眠るように他界した。

親父が死んで急に母親が介護を必要とするようになった。多分、息子にとって母親は、父親と違った特別な存在だと思うので、子供みたいだけど、あの母がこんなになってしまったという裏切られたような思いがどこかにあって、父親以上に負の感情をぶつけてしまったことも少なくない。

もちろんプロの手も借りているが、デイケア施設に送り出すまでと帰って来てからは俺が面倒を見ることになる。オムツ替え、着替え、下の処理、食事等、右半身麻痺の片手しか使えない身体でも、できることはやった。

診療所での定期検診でも、やはり認知症の進行が進んでいた。すでに家でも車イスでの移動となったが、親父の時みたく、ただ親子の感情をぶつけるのは止めようと決心した。多少、我慢はしても、なるべく優しく寛大に接することにしたのだ。すると介護全般がスムーズに運ぶようになった。オムツ替えから着替え、食事まで。しかも母に笑顔が見られ、よく笑うようになった。介護の始まりは意図しないものだったが、最期までシッカリと看取ろうと考えるようになった。

親の介護が俺の人生にどんな意味があったのか、どんな効果をもたらしたのか、結論は出なかった。親だから介護して当たり前なんて思いたくないし、親に感謝しなきゃならないとも思わない。ただ、これまでの短い介護体験は両親の深い心、人間らしい感情を知ることになったし、自分自身を見つめる結果にもなったと思う。

俺自身にも、明らかに怒りや不安などの負の感情が存在することを今更ながらも認識した。そして、それが場合によっては決して小さくないと。

しばらく母親の介護は続いたが、やはり床擦れが酷くなって来て、流動食以外、受け付けることがなくなり、ガリガリに痩せて、一昨年、デイケア施設のステイで、穏やかに死んだ。なるべく優しく丁寧に接することで、母親に対する愛おしさが湧いてきた直後のことであった。

そして、大きな虚しさが残った。二人を最期まで看取ったという満足感はあっても。後悔することは必ずある。今も少し引きずってるかもしれない。


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TOMOKI
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。