全ては“無”
早朝に、母様のことを想って、ふと、三島由紀夫最後の長編小説「天人五衰(豊饒の海)」(主人公は十六歳の少年、安永透)をめくる。
「透にしてみれば、四年間を一緒に暮らしてみて、いよいよ老人が嫌いになった。
その醜悪で無力な肉体、その無力を補うくだくだしい無用のお喋り、同じことを五へんも言ううるさい繰り返し、繰り返すごとに自分の言葉に苛立たしい情熱を込めて来るオートマティズム、その尊大、その卑屈、その吝嗇、しかもいたわるに由ない体をいたわり、たえず死を恐れている怯懦のいやらしさ、何もかも許している素振り、しみだらけの手、尺取虫のような歩き方、一つ一つの表情に見られる厚かましい念押しと懇願の混ざり合い、その全てが透は嫌いだった。
しかも日本中は老人だらけだった。」
「年寄りなんか汚い。臭いからあっちへ行け」
皆が抵抗しようとする老いが精神と肉体双方の病気だとすると、老い自体が不治の病で、ということは人間の存在自体が不治の病に等しく、肉体そのものが病の原因となり、潜在的な死ということになってしまう。うーむ。
…一見、三島文学の表現はとても辛辣だが、その後の透の破滅を読むと、結局、若さも老いも、全てを超えて帰着するのは、「無」でしかないということだ。人間の、たくさんのこだわり、生きる糧になってきた思いも哲学も、時が経てば全て無になってしまうこと。無常感もそれを表わす。
「そんなお方は、もともとあらしやらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。」
ひゃー、怖いねー。
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脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。