『THIS IS WATER 』「これは水です」
ありききたりだが、四月も終わりに近づいて来た。
今月オープンした近所のスーパーのレジは長蛇の列、並ぶ人の表情は「良いものが安く買えて、溢れんばかりの笑み」では無く、不満気で疲れた顔で並んでいた。
そんな事を考えながら、レジに並んでいると、おばちゃんに堂々と横入りされた。
駅のエスカレーターでも今日もおばちゃんに割り込まれた。
横入りしたおばちゃんは僕の心を見透かす様に怪訝な表情を浮かべる。
「怪訝な表情をしたいのはこっちやわ〜」と心の中で呟く。
「大阪にカジノ何かいらんわ〜」と言っていたはずのあの人は、握手してくれた事を理由にIR推進派に投票したらしい。
週末の偏ったTVのワイドショーやSNSがおすすめしてくる動画に辟易し、毎日の天気に文句を言う、そのくせ光速で過ぎて行く日々には鈍感に怠惰な日々を過ごす、相変わらずの日常だ。
先日、久しぶりに大阪駅近くの商業施設ルクアにある、梅田蔦屋書店に足を運んだ。
おおさか東線の新駅を利用してみたいと言うささやかな思惑もあり、うめきた駅から久しぶりに梅田蔦屋に向かう。
ブックコンシェルジュとの世間話も「楽しみ」だが、今回はお預けになってしまった。
何かを「楽しむ」と言う行為はそれなりに、心身が健やかでなければ「楽しむ」から遠ざかってかしまう。
中々見えにくい自分の「こころ」も「何かを楽しむという物差し」で見えてくる、その「物差し」で今の自身の「こころ」は健やか?とはかって見ると、どうもそうではないらしい、鬱鬱としていた一時期の事を思うと、こうやってnoteを綴っているわけだから健やかさも少しは回復して来ているようだ。
四月と言うと、新年度、新学期で新たな門出に向かう人達に向けての平積みが、書店の毎年の新年度の装いだ。ここ数十年店頭に必ず鎮座する本を横目に「新年度か…」と毎年、心の中で呟いて来たんだろが、去年はどうだったかは覚えていない。
今回はそんな事も感じないまま、書店の平積みを眺める。
そんな平積から『THIS IS WATER』が目に飛び込んできた。
コンシェルジュの書いたポップも抽象的だ…「彼にしては、抽象的すぎる…意図的な抽象だな…」うがつた読みをしつつ本を手に取った。
これは水です
デビッド・フォスター・ウォレス/阿部重夫 訳
田畑書店
思いやりのある生きかたについて
大切な機会に少し考えみたこと
デビッド・フォスター・ウォレス が2005年にアメリカのケニオン・カレッジ卒業式で行ったスピーチで2010年にタイムス誌で全米第1位に選ばれたそうです。
若いおサカナが二匹泳いでいる
そう、スピーチにありがちな「寓話」から始まる。
同じような諺が日本にもあって
「魚の目に水見えず、人の目に空(風)見えず」と言う。
「自分が見えていないものって……色々あるかも知れんな…」と考えを巡らせつつも
「ふむ、ふむ」と読み進め、帰りの電車でほぼ読み終わった。
部屋に戻り、その日のうちに三度読み返し翌日もページを捲た。
「おサカナの寓話」から、話しは始まり
「アラスカの辺境での寓話」
自由になる為の「リベラルアーツ」の話し
何を「崇拝」し自分に何を「啓蒙」し生きて行くか…
寓話、リベラルアーツ、啓蒙…
巷に溢れている「自己啓発本」では無い…
ページを捲る
普通に読めば、活字の量は少ないので直ぐに「読み」終わる…
ページを捲る度に、噛み締めれば「読了」は無い…
(僕にはカッコ良く“読了”と言い切れる本がない)
自分で言う事では無いが、この本を読むまでは「僕はそんなに自己中なタイプでは無い」と思い込んでいた節がある、いや間違いなく思い込んでいた。
『ひとの「初期設定(デフォルトモード)」は全て“じぶんが世界の中心”』を目にするまでは。
極々当たり前の話しだが、ひとは自分が根っからの「自己中」と意識しながら生きてはいない、ひるがえって「あいつは自己中」だと言う悪口は日常的に耳にする。
あのスーパーのレジに平気で割り込んでくるおばちゃんも“初期設定”(デフォルトモード)のままではあるが「自己中」とは自覚していない可能性もある(自覚していないと、断言してもいい。)。
ひとは無意識に「自分は傲慢で自己中心的」と言う事実から目を背けて生きているのだろう。
もしくは、自分自身の暴挙に正当性や正義を紐付けする認知の歪みが生じている。
生まれた時からの“初期設定”のままでは、このクソでタコツボな日常がもっと空しくてもっと腹立たしくて、面倒臭い日常が後から後からやってくる…
何を崇拝するか?にも細心の注意が必要であるとウォレスは云う。
こんな世界を生きていくために、「ものの考え方(リベラルアーツ)」を使って自己中で傲慢な初期設定(デフォルトモード)を手直しし選択していけば良い、とウォレスは気づかせてくれる。
ウォレスはスピーチの三年後の2008年9月12日に去ってしまう。
(銃ではなかったようだが…)
僕は、辛うじて、六十の歳を目前にするまで、ヒタヒタと忍び寄るそれに何度かそそのかされ、その衝動に駆られながらも生き延びているが…
六十手前のおじさんがチョコチョコ書いた散文だ…こんな、散文を読んで、この本を手にしてくれたら…とても嬉しい。
ましてや、書店で“紙の本”を手に入れてもらえれば幸いです。そして何度も何度も繰り返して読んでいただけるともっと幸いでしょう。