その夏、一本の木を植えた。
2016年夏、私は東北のボランティア活動に参加した。
ただ何も分からないままに、日頃からボランティア活動に力を入れながら、防災教育についても学んでいた大学の先輩にくっついて、宮城県気仙沼市へと向かった。
正直に話すと当時の私は「ボランティア」はただの偽善だと思っていた。そんなことをして何になるのか、現地について当時のことを話してくださる方のお話を聞いても、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
見るから「大変でしたね」というような顔して同情しているような顔をすれば簡単だったのかもしれないが、私にはそんなこと、とてもじゃないけれど出来なかった。
だって私は、震災も津波も、経験していない。想像することは出来ても、
その人の気持ちは分からなかった。
「津波は、前からだけじゃなく、2つに割れて前方と後方からくる。」
やっぱり意味がわからなかった。到底私にはわからない。でも、この言葉だけは、忘れたらいけないと思った。知識なんてネットでググれば出てくるのかもしれない。でも、その人が自分の声で、そんな記憶を思い出してまで話をしていた。そしてそれを私はこの耳で聞いていたという事実を、忘れてはいけないような気がした。
その人の横顔はどことなく、寂しそうだった。
遠くの海を見つめる、その瞳は悲しそうだった。
だから私はその夏、一本の「梨の木」を植えた。
それしか出来なかった。それなら出来た。
※『東日本大震災では津波でコンクリート堤防や松林がことごとく破壊される中、深く根をはった木々が津波の勢いを和らげ、防災林として大きな役割を果たした森がありました。』
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海鮮丼のお店のおばさんに「あんた、前も来てくれたよな!」と人間違いされて肩バンバン叩かれて、爆笑されたこと。そのお店の海鮮丼とあら汁の味があたたかくて、今も忘れられないこと。
屋台で、唐桑町の「桑の実」のかき氷を、一緒に販売したお姉さんの朗らかなやさしい人柄。
あれも、これもと両手に抱えきれないほどの食べ物を次々と持たせてくれた気仙沼のまちに住む人たちのこと。
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私にとってあの場所は「被災地」でも「被災者」でもない。あの場所には、顔の見える私の好きなひとりひとりの人がいること。生きていく勇気と温もりをもらったのは私の方だった。私が彼女たちに伝えたいのは「頑張ろう」じゃない、「ありがとう」なんだと思う。
またいつか会える日を、楽しみにしながら。
いつか直接、伝えられるその日まで。
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