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何を作っているのか(目的・無目的)


丸太削り一日目。
とりあえず皮剥きと、ざっくりといらないところのハツリをしました。

(皮付きでは流石に加工しづらいので、まずは皮剥き。皮剥きは生木の方がむきやすいです。)


(手斧の刃を上手く滑り込ませてベリベリと。繋げて剥がれると気持ちいい。)

(むきたては水分でビシャビシャ。生命が噴き出てくる。)

(杉皮は風情がある。捨てるのがもったいないくらい。)

(ツンツルテンになった丸太を粗く削る。何となくのイメージはあるけれど成り行き。)

昨日の作業はこんなとこまで。
住宅街の一角でこんな事をしていると何人にも声をかけられる。

「何を作ってるの?」

家族を含め5回は聞かれただろうか。
正直思った、



「何か決まったものを作らなきゃダメですか?」



ひねくれ過ぎだろうか。笑

けど実際明確に何か作りたいものがあるわけでもない、どちらかというと『削る』という事を通して、木と自分の命をぶつけ合いたい。その時の感覚に触れたいだけだ。

けどおそらく僕が逆の立場だったら同じ事を質問してたかもしれない。

なるほど、どうしてか何かをする時には『目的』や『理由』を求めたがる。(しかも世間が納得しやすい。)

それはもちろん社会活動や生産という面では大切な事なのだろうけど、そればっかり求めると、『何か』大切なエネルギーが生まれる機会をすっ飛ばしてしまう様な気がする。

そしてそんな事に慣れ、当たり前に思考の中に組み込まれてしまっている。

「『創る』とはどうゆう事か。」

子どもの頃に明確に手に掴んでいたその感覚を辿る為に、とにかく木を削ってみる。

ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^