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桜の切り株
よく犬の散歩で近所の桜通りを歩きます。今日も散歩をしていると、ふと気になるものが。
先週までそこにいた桜の木が、僕の腰の高さあたりでバッサリと切られていなくなっていました。
何を伝えてきている?
どうしてもその切り株が気になり、近づいてその桜の切り株の年輪を数えてみると軽く40年は樹齢がありそうです。
直線1キロもある桜通りには数え切れないほど桜の木が並んでいますが、こうも大きな木が急にいなくなると、その周りがなんだか寂しいくらいポッカリとしていて、少し異様な感じにも見えるくらいです。
かれこれ20年以上この桜を見ながら生活をして、何本も何本も理由があって切られてしまった桜を見てきました。
けれど、初めてその切り株の切り口に手を当ててみると、まだほんのり命があるような、脈があるような…
昨日の雨もあいまってか、しっとりと僕の左の掌から目に見えないパワーが流れ込んでくる気がします。
だからなんだと言うわけでもなかったのですが、なんだか寂しいような申し訳ないような、そして自分が情けなくなってくるような感じで。
一体この桜は僕に何を伝えようとしているのか。言ってしまえば"伝えてきている"と勝手に解釈をしているエセロマンチストな自分にすら情けなさを覚えるくらいで、けどやっぱり桜の切り株に呼ばれたような気もして。
浮かんだのは「命」という言葉
何故かションボリして歩いてきた道を引き返しているときにふと浮かんだのは「命」という言葉。
「ああ、人間が勝手に植えた桜が、育ち過ぎたり枝が邪魔になったと、人間に切られて命を終えたんだな…」
その桜を眺めて心癒されてきたのも事実。
なんだか、普段合わないけど時折自分の支えになってくれた目上の方の人生の最後に立ち会えたような、そんな気にもなりました。
別にネガティヴに考えている訳でもなく、ただただしっとりと。そして今日は3月11日。被災して亡くなられた方々がこの桜の様に人工的に命を断ち切られた訳ではないけれど、"その人の意思ではなく命を断ち切られた"という事も事実。
そんな方々の命をちょびっとでも背負って生きられているのかと自分に問いた時に、心の奥底がざわめき、虚しさと情け無さから目を背ける事はできませんでした。
今を生きるって…
よく僕は「今を生きる」という言葉を使ったり意識したりします。だけど本当に「今を生きるって」…
シンプルだけどすごく重たくて、けど重く捉え過ぎてはいけなくて、それと同時にすごくすごく深刻で、困難で。
少し最近"言葉"に頼り過ぎていたかなと反省をして、今ここからまた少しずつ丁寧に歩んでいかなきゃなって。そんな事を思った夜の散歩道。
強風に流された大きな雲から出てきた月が、やたらと綺麗な夜でした。
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