
脱構築と正義
この記事では哲学者ジャック・デリダが提案した、現代思想における最重要概念である脱構築と正義との関係について、理論物理学(統計力学)・複雑系科学の研究者である私が趣味で読んだ哲学書の範囲でまとめたものである。
また、私が以前書いた映画批評記事、「映画批評『ダークナイト』: 本音と建前の脱構築」にて予告した付加的な議論でもある。
「映画批評『ダークナイト』: 本音と建前の脱構築」では、クリストファー・ノーラン監督による大ヒットバットマン映画『ダークナイト』(The Dark Knight) を、20世紀を代表する哲学者であるジャック・デリダの非常に有名な概念である脱構築という哲学の方法を使って批評しました。特に、この映画が提起している「正義とは何か」というテーマに関して論じました。
そこでは、ジョーカー側が本音の論理を、バットマン側が建前の論理で行動していることをまず指摘しました。そしてその二項対立を脱構築すると、正義とは何かという非常に難しい問題も考えやすくなり、その解答も得られるということを書きました。
その批評の最後に、そうした大枠の議論では扱いきれなかった付加的な問題の分析・批評の予告を行いました。なのでここではその予告通り、それらの問題に関して批評していきたいと思います。
その付加的な問題とは以下の6つです。
脱構築と正義の問題
ハービー的正義とバットマン=ブルース的正義の対立とその脱構築
両表のコインというモチーフの意味
バットマン=ブルースはいつから建前の重要性を理解しダークナイトとなったか
ジム・ゴードンとは誰か
ジョーカーの精神分析
この付論1では、以上の6つの中でも特に1 の問題を扱いたいと思います。2 以降の問題に関しても近日中に note 記事にします。
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脱構築と正義の問題
脱構築とは正義なのである

実はデリダは、彼の著作『法の力』の中で「脱構築とは正義なのである」という言葉を残している。以下はその箇所の引用であるが、直接には高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』からの引用である (これは論文やレポートではないのでこうした孫引きはご容赦願いたい)。
法は [・・・] 本質的に脱構築可能である。[・・・] 法のこのような脱構築可能な構造こそ、あるいはこういった方がよければ、法としての正義のこのような脱構築可能な構造こそが、同時に脱構築の可能性を保証しているのだ。もしも正義それ自体というようなものが、法の外あるいは法のかなたに存在するとしたら、それを脱構築することはできない。同様にまた、もしも脱構築それ自体というようなものが存在するとしたら、それを脱構築することはできない。脱構築は正義なのである。
哲学、特に現代思想を徹頭徹尾論理的に読もうとすることはナンセンスかももしれないが、最後のテーゼ「脱構築は正義なのである」が成立するように無理やり論理的な方法で敷衍してみると、次のようになるだろう。
--------脱構築が正義であることの論証--------
法の脱構築可能性が、またそのことのみがこの世のあらゆる言説の脱構築を可能にしているとする。ということは、正義が法とは独立に存在し、かつ法によって還元できないとすると、少なくとも法の脱構築可能性によっては正義という概念それ自体は脱構築できないということになる (帰結①)。また同様に法の脱構築可能性がこの世のあらゆる言説の脱構築を可能にしているならば、脱構築という概念そのものの脱構築はできないことになる (帰結②)。したがって、法によって還元できない概念が正義のみであるとすると、帰結①と帰結②より、脱構築=正義というテーゼが成り立つ。
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帰結②の、脱構築自体の脱構築不可能性のテーゼの部分のみもう少し丁寧に議論してみる。もしも、脱構築自体が脱構築可能であると仮定してみる。すると、法の脱構築可能性がこの世のあらゆる言説の脱構築を可能にしている以上、「法の脱構築可能性が同時に脱構築の脱構築を可能にする」ということが成り立つ。しかしこれはおかしい。なぜなら、法は今、脱構築される対象であるから、法の脱構築可能性によって脱構築自体が脱構築可能であるというのは、脱構築の対象がカウンター的に即座に脱構築そのものを脱構築できてしまうことになり、脱構築が次々と反射して脱構築自体が無意味化するからだ。
頭がおかしくなりそうだが、とにかく、デリダが脱構築とは正義であると言っていることは確かだ。つまり私の前述の「建前による本音の脱構築自体が正義である」という結論はこれをなぞっているように見える。
しかし、私はこのデリダによる荒っぽい論証を「建前による本音の脱構築自体が正義である」の直接の論拠とはしないことにする。これは、論理的にはこのテーゼを私の結論の根拠にはもちろんできるが、あえてそういう論証の仕方をとらない、ということである。
なぜならまずは、すでに確認したようにその論理は怪しいからだ。またより重要な理由として、脱構築とはその性質上任意の言説に対して適用できてしまう、ということがある。これだと、正義も同時にあらゆる言説あるいは行動に対して行使可能なものということになる。こうなると、私が本論である「映画批評『ダークナイト』: 本音と建前の脱構築」で挙げた例である「計画性の脱構築」さえも正義ということになる。
しかし、正義の本質はその建前性あるいは脱構築性だけでなく**「適用対象の問題に依存する特殊性」あるいは「どのような問題に正義を行使するか」という選択にもある**と私は考える。世の中のほとんどの政治的あるいは社会的問題は、実のところケースバイケースにしか解決できないだろう。また単にルールを遵守すれば済むのであればそれでいい、という場合ももちろんあるだろう。
こうした理由から、私はデリダの主張「脱構築は正義である」を『ダークナイト』の提起する問題であるところの「正義とは何か」の結論部分の論拠にはしなかった。