学校は子どもを守ってはくれないかもしれない。けど絶対に子どもの味方でなくてはならない。
ツイッターで話題になっていたこのマンガを読みました。
小中学と学校に行ったり行かなかったりしていた主人公(作者)と彼をとりまく9人の先生との物語です。
中でもドラゴンボールの作者、鳥山明先生との出会いで自分の居場所をようやく見つけたと思えるようになる主人公の気持ちの変化は、僕自身の過去を振り返りとても共感することができました。
「フツウ」でありたい気持ちが心を追い詰める
不登校であるという状況から、自分は「フツウ」じゃないんだ、と主人公は自分を少しずつ追い詰めていきます。
僕自身も、子ども時代に学校やまわりの子どもたちと馴染めなかったときに「自分はダメなんじゃないか」「自分が変なことを言ったりだらしないから、こんな目にあうんじゃないか」と自身を追い詰めていました。
いまなら「フツウ」ってなんだろう? 本当に「フツウ」であることが生きていくうえでそこまで大切なのかな? とそのフツウ自体を疑うことができる。
だけど、子ども時代の自分にとっては「まわりと同じである」「目立たない」ということこそが、自分を認めてもらえる唯一の評価ポイントでした。
だから、まわりから認めてもらえない、仲間になれない、というのは自分がフツウではない何よりの証拠だと思っていたのです。
そんなとき「フツウ」なんてないんだから気にしなくていい。君は君のままでいいんだよ。
と、励ましてくれる大人は、残念ながら僕のまわりにはいませんでした。
学校は子どもを守ってはくれないかもしれない。けど絶対に子どもの味方でなくてはならない。
マンガの中で、主人公は先生に救われることもあるけど、先生によってより追い詰められることもあります。
そんな先生のやりとりを読んでいて、「彼にも、自分の味方はどこにもいなかったんだ」と共感してしまいました。
親や先生が心配してくれる、のはよくわかるのです。
だけど、心配してくれることと、味方であることは必ずしもイコールではない。
そうではなく、「自分をそのままの自分として受け入れてくれる」それこそが味方であるということなんじゃないかなと。
マンガの中では、唯一の友人堀井くんが、きっと主人公の味方だったのです。
学校をつくるにあたって、僕はやっぱり勉強だけじゃなく学校が子どもたちにとって帰ってこれるような場である必要があると思っています。
子どもがいろんな課題を抱えてしまったとき。
学校に来れなくなったり、いじめが起こったりしたとき。
学校がそれらを食い止めたり、解決したりすることが必ずできるわけじゃない。先生がどんなに真摯に向き合っていたって、どうにもならないこともたくさんあると思います。
だけど、それでも学校は、さいごまで子どもたちの味方でなくてはならないと思うのです。
こどもに変わることをのぞむのではなく。あるがままのその子を受け入れる場所。
ぼくが欲しかったのは、そんな学校なんだなって思うのです。
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今日も、見に来てくれてありがとうございます。
とてもすてきなマンガでした。なんて、リアルなんだろうって。なんて、想いを込めて描かれているんだろうって。
ぜひ、明日もまた見に来てください。