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七話・噓つきたち

 その公園には桜や花梨かりんの樹があった。桜が公園の敷地一帯をぐるりと取り囲むように植えられ、花梨はブランコの後ろに植わっていた。花梨の花は四月から五月で、もう花の終わった緑樹の細い一枝に駿は手を掛けた。

「わだかまれ宝珠、滞れ悪鬼」

 短い呪言を唱えると、駿はすらりと一枝を抜き、刃と化した。鈍く光るが取り立てて特徴のない長刀である。銀月や乱朱のような目立った色を持たない。

 まだ君臨を続ける日輪のもと、駿の顎から汗が滴り落ちる。

 汚濁の触手が駿に向かい荒れ狂う。駿は触手の数本を一気に斬って捨てた。早技の前に寸断された触手は塵と消える。正確に触手の付け根を狙い、寸断するに一切の乱れも狂いもなかった。

 そこから少し間合いを取る。

 汚濁の怒りの雄叫び。灰色の本体は金粉がところどころに混じっていて、醜悪美を呈していた。その醜悪美そのものが駿に突進してくる。残った触手をも使い、駿を圧死させる積りだ。目論見に付き合ってやる道理はない。


 駿は突進を高い跳躍でかわすと、真上から汚濁に向けて刀を突き刺した。ずぐり、と刀身が鍔近くまで汚濁の身に埋まる。あとは何度も見た光景だ。

 さらさらと汚濁が風に散り、とん、と駿は着地した。

「いつからそこで見ていたんですか」

 駿が刀を無に帰してから花梨に目を据えたまま尋ねる。


「神楽さん」


 公園の入り口に悠然と立っていたのは、菫と興吾の父である、神楽京史郎かぐらきょうしろうだった。

 暑い中、白シャツに若草色のベスト、グレーのスラックスという端正な出で立ちだ。

 「君が今使ったのは……、君の本当の霊刀ではないね。ダミーだ。それでも実戦に耐え得る分、見上げたものだが。真の霊刀を菫たちにも見せないようにしているようだが、何か理由があるのかな」

 京史郎は駿の問いに対して問いで答えた。暑い最中、汗一つ浮かべていない涼しげな顔のこの男を、駿は菫とは違う気質の人間であると思った。柔軟な感情、温もりを寄せ付けない側面を持つ人物だ。菫や弟である興吾、彼らの母である妻に対してもそうなのだろうか。

 解らない。

 駿はただ、この場を誤魔化すことを考えた。

 本来であれば名を呼び、神域から借り受けた物を霊刀と呼ぶ。駿は霊刀の名を呼ばず、呪言のみで神域とは異なる別の次元から得物を取り出していた。言わば紛い物。京史郎の指摘する通り、ダミーの霊刀だ。

 そんな内情を胸に、蒼天の下、堂々と嘘を吐く。にこやかに。

「俺はまだ未熟なので。お宅のお嬢さんらと違い、真の霊刀を顕現させるに至らないだけですよ」

「成程。とても納得出来ない理屈だが、今は信じると言っておこう。君と君に連なる者に警告しておくよ。菫に害があると思った時、菫が害となると思った時、場合によっては私が君たちを相手取るとね」

 ざわざわと桜や花梨の葉が鳴る。二人の男の対峙を、樹々らが見守っていた。

 ブランコが風に押されて微かに動き、キイと音を立てた。青く塗られたペンキも、もうほとんどが落剥している。



 駿が砂場に歩み入り、砂を掴んでサラサラと手の間からこぼす。

「こんな風に、人の生とは儚いものですよ、神楽さん。娘さんたちに隠れて暗躍したりせず、表に出てみてはどうです。違う景色が見られるだろう」

「その言葉、そっくりそのまま君に帰すよ。一体、君が何分の一、素顔を菫たちに見せているのだろうね」


 同じ穴のむじなという奴か。
 駿は思った。


 菫に、華絵に、隠していることなど数え切れない。駿が今、彼女たちに見せている顔は氷山の一角に過ぎないのだ。そしてそのことは、京史郎にも同じく言えることらしい。

 軽く笑う。

 少し可笑しくなったのだ。この虚構の寸劇に踊る自分たちの存在そのものが。

 全てを知った時。


(お前は俺のどこまでを許すだろう……。菫)


 氷山が全ての形を表わした時。

 あの高潔で真っ直ぐな気性の持ち主は、怒るだろうか、……泣くだろうか。



 興吾はその日、菫の部屋に泊まると言って聴かなかった。ご丁寧にお泊りセットとランドセルまで持参している。倒れたところを助けられた手前、菫も無碍には出来ず、折り畳み式のローテーブルを片付けベッドの横に客用布団を敷くと、興吾は至って満足したようで布団に悠々と寝そべった。

「ベッドのほうに寝ても良いんだよ?」

「男をすたらせる気はない」

 この遣り取りも、興吾が菫の部屋に泊まることも、これが初めてではなかった。

 日中は閉口した暑さも夜になると少し和らぎ、微弱な風も入ってくる。 
 電気を消して隣同士で横になった姉弟はしばらく無言だった。

「父さんってどんな霊刀を使ってたんだろうな」
「さあ。……兄さんの事件があってから霊能特務課からも長老たちからも距離を置いたと聴くから。でも現役時代は凄かったらしいな。京史郎の京は最強の京と言われてたって」

 菫が消した電気から下がる紐の、先端についた円球を見る。蛍光塗料が塗られた円球は暗闇でうっすら緑に光る。

「恰好良いよな。俺もそんな風に言われてえ」
「興吾なら言われるようになるよ。興吾の興は最強の興だって。流石、あの京史郎の息子だって」

 暗闇に、興吾のくすぐったそうな笑い声が響いた。

 本当は、菫は弟には霊刀を持たせたくはない。隠師の任務は常に危険と隣り合わせだ。だが図らずも優れた才能を持って生まれてきた興吾は、遠からず隠師として名を上げるだろう。菫には今から既にその予感が強くあった。

 死んだ兄はそのことを喜ぶだろうか。それとも菫同様に心配のほうが先に立つだろうか。


〝バイオレット。僕の可愛いお姫様〟


 いつかは必ず解かなくてはいけない。

 兄の死の真相を。要を忘れろと言われても。

 それがあの場にいて、真犯人を見た筈である自分の義務だ。

 いや、言葉を飾るのはやめよう。今では兄・翔を殺した相手を突き止めることが、菫の、存在意義とまで化していた。その為、記憶の核心に迫ろうとするたびに起こる頭痛は、煩わしい邪魔以外の何でもなかった。


 耳に興吾の健やかな寝息が聴こえてくる。

 いつの間にか思い詰めた顔をしていた菫は、唇に淡い笑みを刷いた。


 翌日、ベーコンエッグとフレンチトースト、夏野菜のサラダにインスタントの冷製コーンポタージュを興吾に食べさせて小学校に送り出した菫は、自分はのんびりとそれらを食べて大学に向かった。院生の身分は小学生より気楽で良い。しかも任務遂行に利する為の仮の立場であるから尚更だ。

 央南大学文学部棟は央南大学の正門を入って広い道を左折し、三つ目の建物である。震度四の地震が来たら潰れるなどとまことしやかに言われているのは、建てられた年代の古さによる。教授陣の蔵書類も建物を潰す一要因ではないか、などとも。

 史学科持永研究室はその三階にあった。


「泣き女?」

 研究室に着いて早々、耳にしたのは非日常的な単語だった。

 今日もよく晴れて、外では蝉が喧しく鳴いている。
 ああ、プールに行きたい。水中で光と戯れ身を清めたい。

「菫。現実逃避したくなるのは解るけどね?」

 菫は諦めて大人しく華絵の話を拝聴することにした。駿も机に着き、華絵の話に耳を傾ける姿勢だ。いつになく潔い。

「アイルランドではバンシーと言うわね。家人が死に近づく家があると、その側で毎夜、啜り泣くという……」
「中国に次いでアイルランドですか。一体、どれだけ日本の妖怪業界は国際化してるんです」
「私に言ってもしょうがないじゃない」

 華絵が笑い、菫は軽い八つ当たりをした自分を恥じた。


「その泣き女が出る家があるって?」

 駿が華絵に訊く。真剣な顔だ。

「泣き声がするそうよ、夜。それだけでは断定出来ないけど、その泣き声を聴いた人のいる家には、重篤の老人がいるんですって」

「……泣くだけで害はないのでしょう? 放置しても良いのでは」

 菫の提言に華絵が柳眉をしかめる。

「駄目よ。負の感情を増幅させるんだから。汚濁の温床じゃない。それでなくても最近、なぜかこの町に汚濁が増殖してるってのに」

 なぜかこの町に汚濁が集中している。その言葉に菫は身を固くする。

 霊能特務課と、長老たちが菫を特殊と見る理由。人外を引き寄せるその体質。

「確かに。それは見過ごせませんよね!」
「……駿。さっきからやけにやる気じゃない。いつも無気力男がどうしたの?」
「バンシーと言えば美女という説もある妖怪、いえ、妖精じゃないですか」「ちゃら男の頭が沸いてるだけだったか」

 菫と華絵は納得して頷き合った。

「俺が他の女性に心奪われかけてるからと言って、嫉妬しないでくれ」

 駿が気障に前髪を掻き上げる仕草をする。

「菫。今日のお昼、何食べる?」
「学食で済ます積りでしたが」
「最近、お洒落なレストランが近くに出来たのよ。しかもお手頃価格。行ってみない?」
「それは楽しみですね」
「ねえねえ。ちょっとちょっと、」
「バンシ―の件は駿が一人で何とかしてくれるそうよ」
「頼んだぞ村崎」
「待って、ごめん、調子に乗ってごめん、謝るから仲間外れにしないで」


 結局、新装開店したレストラン『パブーワ』には三人で連れ立って行き、その美食に舌鼓を打った。チーズを隠し味に使ってあるという、厚い卵がふわふわ、とろとろのオムライスが特に看板メニューだそうで、それを注文した菫たちは一様に、店のシェフの腕前を手放しで褒めた。

「これ、うちでも作れないかな」
「単純そうでコツが要るんじゃないか。そこはプロだろ」
「うーん。試してみたい」

 余程、味が気に入ったらしく、真剣な顔で検討する菫が微笑ましい。

「俺の為に作ってくれたら嬉し泣きする」
「ああ、そうだな」

 適当にあしらわれた。慣れた日常風景だ。

 いつもの〝村崎駿〟を演じながら、駿は京史郎の言った台詞で気になるものを反芻していた。


〝菫に害があると思った時、菫が害となると思った時〟


 あの言い方は相反している。

 片や菫を思う言葉で、片や……。

 そして京史郎は彼らの存在には気づいているのか。

 どうやら京史郎の氷山は自分より大きいらしいと駿は思った。



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