短編小説『スティグマ』
バスで耕助の隣に座った男は薄藤色のシャツを着て、座る際、「失礼」と言った。
耕助の自宅に向かうバスはもうこれが最終だった。会社の上司の延々と続く愚痴がなければ、まだ少しは余裕をもって帰れただろう。だが、それは意味のないifだ。バスの車内には耕助と男の他、複数の乗客があった。いずれも皆、くたびれた顔をしている。男の薄藤色のシャツは、品があった。上等の染料が使ってあるのだろう。とすれば、男の経済状況も多少は推し量れるというものだった。耕助よりだいぶ若く、少年から青年の域に移ろいつつあるように見えるが、薄藤色の品位に負けない端整な容貌をしている。
どこかで、会った気がした。
バスは小刻みに揺れ、耕助を自宅へ運ぶ。この男はどこまで乗るのだろう。耕助はいくばくかの興味を男に対して抱いていた。
「思い出してくれませんか」
唐突に男がそう言った時、耕助は一瞬、訳がわからず当惑した。男は、今度は耕助にきちんと視線を合わせて再び言った。
「思い出してくれませんか。僕のことを」
「――――すまないが、人違いをしているのでは」
「いいえ。あなたです。ずっと、探していた。あなたが僕を捨てた時から」
さすがに耕助は気味が悪くなった。この男は、気違いかもしれない。これは面倒なことになった。こういう手合いには、断固とした態度で応じるのが良いのだ。
「君の考え違いだ。私は君のことなど知らない」
「ええ、だってそれは、僕が今、ここにいるからですよ」
「意味が解らない」
バスが信号停車した。春の宵闇の中、横断歩道を渡る人影はない。
「解離という言葉をご存じですか」
「解離?」
「過度のストレスからの自己防衛の為、行われる人格的トカゲの尻尾切り。それを為すことによって人は、外界への適応を図る」
理路整然と男が話を進めるほど、耕助は薄気味悪くなった。男の話しぶりは何等かの心理学的学問を修めた者のそれだと感じた。
「もうすぐ藤の花の季節ですね」
不意に男が話題を変える。耕助は、自分より若年の男に翻弄されることに屈辱を覚えた。
――――――――若造が。
「思い出しませんか。あなたのお母さんは、あなたのお父さんの浮気に正気を失くし、とりわけ藤の花咲く晩春の夜になると、庭の藤の樹にあなたを縛り付けて折檻した。薄い紫の花弁が、時にはらはらとあなたの頭上に落ちた」
「よせ」
「あなたのお母さんは哀れだった。そしてあなたはもっと哀れだった。あなたが出来ることは、そう、『僕を生み出して捨てる』ことだった。過酷な記憶の一切を、僕に負わせて」
「やめろ」
「解離によって生じる症状には二種類ある。〝スティグマ〟と呼ばれる永続的で基底的な症状。こちらは生活意欲の低下、現実感の喪失、引きこもりなど、静かな形で表現される。もう一つの派手なヒステリー諸症状とはまるで違う」
「うるさい、うるさい、うるさい」
なぜか他の乗客たちは耕助と男の不穏な遣り取りを気にかけない。
なぜだろう。
皆、窓の外を見たり、スマホを見たり、眠りこけていたり。
「あなたは〝スティグマ〟だ。僕を切り捨て、引きこもった。自分が今、どこにいるかさえ解っていない」
バスの小刻みな振動。そう、耕助は今、勤め帰りにバスに乗っている。そうでなければならない。帰ったら、シャワーを浴びて、適当なつまみを食べながら缶ビールを飲む。そうしてまた明日に備える。それが耕助の日常。
「ねえ。もういい加減、目を覚ましてくれませんか」
一条の眩しい光が車内を照らした。
「ねえ、もういい加減、目を覚ましなさいよ」
笑いを含んだ声でそう言って、耕助を覗き込んでいるのは母親だ。
今は朝。春の朝だ。晩春の。ぼやけたような特有の空気。
人を異界に招くような。
何か、不思議な夢を見ていた気がする。思い出そうとすると、恐怖と、なぜか憧憬が湧く。
早く起きて、高校に行かなければ。
……今日は、行けるだろうか。
ここ数日、耕助はずっと部屋に引きこもっていた。父は耕助に無関心で、母も耕助の引きこもりに関しては何も言わない。
耕助は母親の様子をちらりと見る。今は、機嫌が良さそうだ。だが夜になると解らない。
耕助は庭にある藤の樹が怖い。まさに盛りと咲き誇る藤。蔦植物特有のその生命力は、母の狂気の恐ろしさに近いものがあるように感じる。
二階の窓から藤を見下ろす。
満開の藤。
スティグマだよ、と、誰かの声が聴こえた。