松永真さんの『松永真、デザインの話。+11』を読んでみた
グラフィックデザイナーの松永真さんのエッセイ『松永真、デザインの話。+11』を読んでみた。
この本は、コンピューターグラフィックス誌「Agosto」(アゴスト)に連載された「松永真のグラフィック快談」をまとめたものである。
本を手に取ったきっかけは「㊙︎展」
松永さんに興味を持ったのは、「㊙展 めったに見られないデザイナー達の原画」で、松永さんの仕事のスケッチに触れたのがはじまりだった。(その時の感想はこちら。)
恥ずかしながら無知な私は、それまで松永さんのデザインを見ることはあっても、お名前を知らなかった。㊙︎展の展示で、初めてその存在を知ることになる。
スコッティの国際デザインコンペで、条件が「花のイメージ」と「既存ロゴの使用」だったのにも関わらず、ストライプのパターンと新しいロゴを提案して優勝された話が印象的だった。
その仕事ぶりも素敵だと思ったが、それとは別に、展示台に寝かされた「人面犬」が気になった。
綿密に作り上げられたデザインとは対照的な存在だった。これは一体何なのだろう。
『松永真、デザインの話。+11』を読むことで、このブロンズが何であるのかと、松永さんのデザイン思考に触れることができると思った。
松永真さんのアナログな経験とデザイン論に触れる
私はWEBデザイナーとして本格的にデザイン業務をし始めて5年くらいになる。最近思うことは、認められるデザインは制作できるようになったものの、もう少しクリエイティブジャンプをしたいと思っていた。そのためには、一流のデザイナーがどのように考え、どのようにデザインしているのかを知り、少しでも取り入れたい。
本書では、様々な仕事とエピソードから、松永さんが大事にされていること、その時に感じたことを知ることができる。
その中でも、今後も心に留めておきたいことをピックアップしておく。
デザインを行なう上でもっとも大切なことのひとつは、フェアであること
デザインを行なう上でもっとも大切なことのひとつは、フェアであることだと思う。客観性=デザインといっても言い過ぎではない。デザインの使命のひとつが共感を得るということである以上、色がきれいだとか形がどうだという以前に、そのデザインが客観的に正しく判断されているものかどうかが重要なのだ。
本文はこの言葉からスタートする。優れたデザインを生み出すデザイナーがいう言葉としては、少し意外だった。
凡人には理解できないような、職人然とした言葉が来るかと予想していた。けれど、デザインをしている身からすれば理解できる、本質的な言葉だと感じる。
デザインをしていると、時に第三者から「こういうように見える」と意見をもらうことがある。その意見は「私はこういうつもりで作ったのでそうではない」と跳ね除けるのではなく、「なるほど、そういう風にも受け止められるのか。ではこうしたらどうか」と客観的に見直したり、伝え方を再検討したりする必要がある。どんなに腕の良いデザイナーでも、客観的な視点を忘れてはならないということだと受け止めた。
つまらない約束は破るのではなく、まずサッサと果たしてしまう
「つならない約束は破るのではなく、まずサッサと果たしてしまう。その後に本当に自分のやりたいことを実行する」という方法も学んだのである。
これは松永さんが資生堂のサマーキャンペーンで、初めての海外ロケをした際、現地に着いた途端に衝撃を受け、東京でトップの許可を得た内容が吹き飛んでしまった時の話だ。約束したカットの撮影を半日で済ませてしまい、それから自由課題に取り組んだ。
ポスターに採用した写真は、現地で思いついたカットを採用した。
少し話が違うかもしれないが、どうしても納得できないデザインを求められた時、依頼者の要望を満たすものと、自分の提案と両方提出することがある。ビジュアルで見せないと分かってもらえない時に使ったりする。
求められるものを作らずに提案するより、はるかに受け入れられやすい。そういうことなのではないかと思った。
自由な発想で勝手気ままに思ったことを実行することが、作戦を上回ることもある
狙いすまして戦略を計ったり、綿密な計画を立てることも面白いが、自由な発想で勝手気ままに思ったことを実行することが、作戦を上回ることもある。一般的に受け入れられるもの、つまりポピュラリティを持つものは、平凡でも多数の物事を満たす力を持つ。だから非常に素朴なアマチュアリズムの精神をベースに、それをプロフェッショナルなディテールに仕上げていくことは、結局デザインにおいてもパワフルなものになるのではないだろうか。
松永さんが明治のチョコレートの広告の仕事手がけた「おれ、ゴリラ。」が、身近な存在である隣のおばあちゃんにはっきりと自分の仕事をわからせてやりたい、という気持ちで作ったのに、当時大変な話題となったことに対して書かれたもの。
ただ一人のターゲットに届けようと思い仕上げたデザインが、結果的に広く多くの人に受け入れられたのではないかと思う。
また、発想はありがちなものでも、洗練されたデザイナーの手にかかって品質の高い表現であれば、力を持ったデザインになるということだ。
自分がデザインする時、具体的に誰に届けるメッセージなのかをイメージすることと、一定以上の品質の表現にすることは忘れないでおきたい。
夜の気ままな遊びから生まれたフリークス
松永さんが1993年から2年間、あることをきっかけに、帰宅後にブロンズの創作を始めることになる。
私はこうしたデザインの呪縛から逃れた一連の創作を「メタルフリークス」「ペーパーフリークス」と名付けた。「フリーク」という言葉には、気まぐれ、できごころ、酔狂、出たとこ勝負、夢中な人などの意味がある。デザインを理性と客観の昼間の世界にたとえれば「フリーク」は、本能と直感が解き放たれた夜の衝動から誕生する無計画な世界である。子ども心に満ちたナンセンスでユーモアあふれる世界。それは合理的な計画性が要求されるデザインと対極に位置するものなのだ。
昼間の私は、デザインの反動の産物をとても面白いと思った。そして「退屈な会議なんかクソ食らえ」という天真爛漫な夜の私に対して「お前には天然の魅力がある。思い切ってバーンと発表してみないか」とおだてはじめるようになった。もちろん夜の私は反発する。「これは誰かに見せるためではなく、昼間の反動を楽しんでいるだけなんだから放っておいてくれ」。
だが、結局夜の私は昼の私に言い負かされることになる。
この話を読んで、デザイナーといえど、目的を持たずにただ創作を楽しむということをしてもいいんだ、と当たり前のことかもしれないけれど面白く感じた。
デザインとは解決すべき課題があって、そのために作るものと思っていたからだ。
プライベートで制作をすることがほとんど無かった私は、自由気ままに絵を描くなど、一見意味のないように感じるものや、報酬や得られるものがないことに時間をかけるのに、やりたい気持ちはあるもののなんとなく気が進まないでいた。
けれど、自由に創作をして、それを公表することによって思いがけず次の仕事につながった松永さんのお話を読んで、意味のないことではなく、創作を楽しむのも無駄ではないと思えた。
創作が仕事に繋がるとは限らないものの、創作で得たインスピレーションには価値があるのではないか。また、創作に対して「こんなことをして意味はあるのか…」と感じることはないのではないか、やってみたい、と思うようになった。
既成の概念と果敢に対決する
人というのは直面する様々な出来事を、今までの自分の体験をもとに判断しようとする。そして知らず知らずのうちに世間や自分なりの公式に当てはめてしまうことが多い。モノが氾濫しつづける現代では、新しい何かを生み出そうとする時、そんな既成概念と対決しなければならなくなる。
私はデザインを行なう上で、その時代や環境を理解することが非常に重要だと考えている。否定するばかりでもつまらないし、かといって時流に乗りすぎるのもよくない。周囲の事物や風景の中で、個のデザインと生活環境が互いに改善されていくような、心地よい緊張が生まれるのが理想ではないだろうか。ある意味で無責任な事物があふれる今、既成の概念と果敢に対決することは、たとえそれが歴史の中の小さな点であろうとも、決して無駄なことではないと思うのだ。
宝のカンチューハイのデザインをされた話で書かれたもの。
どんな時でもその時代や環境を理解し、既成概念に囚われずにデザインしていくという姿勢。デザインをする時、見習いたい考えだと思った。
松永さんは缶チューハイのデザインをされた時、無地のアルミ缶の美しさに一目惚れし、それまではまず下地を塗ることから始めるアルミ缶のパッケージデザインの既成概念を打ち砕いた。
言葉で表現できないことを具現化し、目に見える形にすることこそデザインの本質
どんな無理難題の百か条を渡されても、それを飛び越えて造形や色彩に落とし込んでいくのが私の仕事なのだと思う。相反する抽象的な形容詞を挙げ連ね、ありとあらゆる理想を言葉でぶつけられても、それを矛盾ごと引き受けるしかないのだ。言葉で表現できないことを具現化し、目に見える形にすることこそデザインの本質なのだから。
資生堂UNO(ウーノ)の仕事について書かれた話の中で、出てきた言葉。細くて太く、柔らかくて硬く、ホットでクール…矛盾した注文をつけられることはデザイナーにはままあることで、それに対して腹立たしくなってきたという記述に思わずクスッと笑ってしまった。
なんだそれは、と思うような言葉の表現や、まだ言葉で具体的に表現できないイメージ。ディレクターや依頼者の言葉にモヤモヤすることもあるけれど、それを受け止めて、引き出して表現を提案するのはデザイナーの仕事なのだな、と改めて思った。
私も松永さんのように、デザインの仕事の範疇と捉えて、無駄にイライラせずに引き受けることにしよう。
右脳による感性が美しい形を具現化する
(前略)合目的性という枠組みから断じて離れることができないのがデザインの宿命である。
しかし最終的な形を作っていく時、どこからやってくるか分からない不思議なものに進路を導かれることがよくある。大きな方向を決める時に論理や思想、コンセプトがあるのは当然のことだが、着地の瞬間は理屈でもなく、論理でもなく、ましてやマーケティングでもない不思議な感覚が大きな力を持つ。つまり、右脳による感性が美しい形を具現化するといってもよい。ガンジガラメの困難なデザインワークの時ほどそれが大きなウエイトを占めるようだ。
『”Spring has come”松永真、ディティールの競演』の展示について書かれたもの。
「右脳による感性が美しい形を具現化する」というのは、デザインをする上でよくある感覚だと共感した。
松永さんが書かれているのは別の意味かもしれないが、
ある程度デザインの効果を理解した上で、自分の中では論理的にコンセプトを決めて表現やモチーフを選ぶものの、実際の表現の角の丸みやモチーフの形などは、右脳による感性を頼りに「美しい」と感じる表現でデザインしている。そして、なぜその形、表現にしたかの理由は後付けにすることもある。
それは「持って生まれたセンス」が必要なのではなく、どれだけ美しいデザインや表現を見ているか、美しい形を理解するためのデッサンや表現をしているかなど、インプットやアウトプットを繰り返して磨かれた感性で表現しているのだと思う。
右脳による感性を磨くことは、良いデザインをするために重要なことなのではないだろうか。
美しい水や空気のようなデザインは、いつになっても大切なベースである
アンダーグラウンド映画というものがあるが、”グラウンド”があるからこそのアンダーグラウンドで、正統な堂々とした映画が存在していなければ、アンダーグラウンドは成り立たない。同じように、デザインにも真ん中の、正々堂々のデザインが必ず求められているはずだ。その上で、右や左が活性化するのがいい。
ところで、幼児の体は七割が水でできているという。幼児にどんなユニークな教育をすればいいかを考える前に、まず、美しい水と空気が不可欠であり、我々大人たちはまずそれらをつくり出す環境を用意しなければならない。デザインにおいてもそれと同じことが言える。つまり、当たり前のことを的確に判断したフェアなデザイン、例えるなら美しい水や空気のようなデザインは、いつになっても大切なベースであり。それらが存在する意義を見失ってはならないのである。またそれは、日進月歩だからこそ、その時代、その時代の中で常に標準計のように持ち続けなければならない永遠のテーマなのである。
世界グラフィックデザイン会議・名古屋でスピーチされた内容。
正々堂々のデザイン。
デザイナーの仕事は、斬新な表現であったり、グラフィカルなデザインの方が注目されがちだ。それはそれで評価されるべきものだと思うが、デザインとは課題解決であり、適切に課題を解決し、ユーザーに受け入れられるデザインであれば、見る人によっては「普通すぎてつまらないデザイン」でも良いデザインだと思っている。
自分ではまだ辿り着けないような、賞を取るようなデザインへの妬み、僻みなのかもしれない。
しかしこのスピーチの話を読んで、「美しい水や空気のようなデザインは、いつになっても大切なベース」だということが腑に落ちた。
「斬新でなくても、それはそれで良いのだ」と思えた。
今後もデザインの課題や、そのデザインが置かれる環境や役割を理解して適切にデザインしていきたい。その大切なベースをクリアした上で、斬新な表現もできるようなデザイナーにレベルアップしていきたい。
おわりに
展示で作品に触れるだけでなく、エッセイを読むことでより深くその人の考え方、仕事を理解することができた。
ここで抜粋したものの他にも、たくさんの仕事のエピソードや、松永さんのデザインの考え方に触れることができるので、興味を持った方は手に取ってみてほしい。
■松永真、デザインの話。+11 松永 真 https://www.amazon.co.jp/dp/486100005X/