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「松王」芭蕉(出自ト説)
芭蕉については「古池は暗号だった」というシリーズで記事を書いてきましたが、一つずつナゾに迫るというミステリーの真似事は素人には難しく、中断していたところ、別のところで大きな気づきがありました。
この記事は「古池……」とは直接関係がありませんが、芭蕉その人に大きく迫れる考察になったのではないかと。ト説(トンデモ)ながら自画自賛。
(ト説=トンデモと云うのは、十分な資料検討や先行研究にもとづかない、断片的な情報と奔放な空想にもとづく仮説という意味です。)
記事の前半は「生け贄(人柱)」について
後半が、芭蕉その人の謎解きという構成になっています。
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「生け贄」とは
「生け贄」の大義は、少数の命を自然(神)に捧げることで、災害などで多くの犠牲者が出ることを回避しようとするものです。
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今も「生け贄」には捧げられている
決して、未開文明の迷信ということではなく、現代においても「生け贄」を許容する発想は受け継がれていると思います。
「医薬品」にしろ様々な安全基準にしろ、ある程度の犠牲者が出るのは仕方がないとされていますから。「○○」のために、ある程度の犠牲は必要だという感覚は、今も変わりません。
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「生け贄」対象者の変遷
ただ、誰に誰を「生け贄」に捧げるのか、そこは変わってきています。
原初の「生け贄」は、支配者が身内から「生け贄」を出していたという説があるのです。結果責任を負っていた原初の王は、大きな災害が起これば王自身が死なねばならず、クニの安泰を祈願するのは、誰よりも支配者一族にとって切実な問題であり、だから身内から「生け贄」を捧げていた。
また「あそこの一族は生け贄を出している」という事実は「支配権」の根拠としても民衆に説得力がありました。
ところが時代が下ると、権力者富裕層は「生け贄」を出すどころか、その選考から除外されるようになります。弱者(貧者、変わり者、娘、子ども、旅人)が、云いくるめられたり、無理やり「生け贄」にされることが多くなりました。
しかし、神は「弱者」を捧げられて喜ぶでしょうか?
弱者が「生け贄」にされるようになった時点で、「生け贄」は神に捧げるものから、おそらく社会秩序のため、既得権益のための制度に変質し、それが今も続いている。
ここでは「生け贄」の是非は問いませんが、決して「バカげたこと」ではなく「おかしいとは思っても抗しがたいものであった」ことを理解しておく必要があると思い、ふれさせていただきました。
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「生け贄」が廃止されるまでの過渡期
現代にも「犠牲者」というかたちで「生け贄」に等しい実態が続いていると云いましたが、露骨な「生け贄」は戦国時代の後、徐々に廃止されるようになりました。
ただ、過渡期の葛藤は非常に大きかったと思います。何しろ人の命がかかっているのです。「迷信だから、やめよう」と云えば、「これまでの生け贄はムダ死にだったのか!」ということになりますから。
それから、支配者の横暴とは別に、大衆にも冷酷な性格があるわけです。「弱者」が「生け贄」に選ばれるようになった理由の一つは、大衆の群集心理だったと思います。自分たちは、くじ引きをしたくない。どうするか? そこで差別意識が頭をもたげる。仕事のできない者たちや、変わり者、あるいは反抗しない者に死んでもらおう、となったと思うのです。
それが恒例化すると、大衆にとっては「生け贄」はさほどつらい制度ではなくなります。むしろ支配者のほうが負担が大きい。支配者には「生け贄」をやめさせるチカラがあるからです。チカラがあるけれども大衆を説得できなければ行動は起こせません。
さきほど「迷信」という言葉を使いましたが「生け贄」が「迷信」かもしれないという発想は、どこから生じたか? 一番大きかったのは仏教の伝来でしょう。しかし、国分寺などが創られ、国家が仏教の普及に努めたのは奈良時代です。それ以降、名だたる高僧、名僧があまた登場し教えを説きましたが、「人柱」などは、なかなか絶えることがありませんでした。災害の恐怖は理性や仏教の教えを越えていたわけです。
「人柱」をやめるには、もっと別の何かが必要だったのです
◇ ◇ ◇
昔、あるところに…… 今度の工事で「人柱」をどうするか? 思い悩む代官がおりました。そこに、おりよく一人の聖があらわれます。聖は、こうアドバイスしました。
「これまで人柱になった者たちの魂がさ迷っております。それらの魂に呼びかけ、工事の安全に協力して貰えばよろしいかと」
「さすれば、新たな人柱は必要がないと?」
「はい」
「法要をせよというのか?」
「うってつけの者たちがいます」
「そちの知り合いの僧か?」
「いえ、『松王の裔』の者たちです」
「松王? 聞いたことがある名だな」
「代々、人柱を出してきた一族です」
「ああ、乞われれば他国にまで出かけて人柱になったという者たちか」
「いかにも」
「では何か、その松王の者たちに人柱になってもらえというのか?」
「そうではありませぬ。彼らはもはや人柱にはなりませぬ。人柱の罪深さに気が付き、誰よりも心を痛めて、人柱などせずともよい方法を編み出したのです」
「人柱をやらなくても、神の怒りを買うことなく、災害や事故を回避できる方法があるというのか?」
◇ ◇ ◇
「生け贄」について調べ考えていると、そんな「物語」が降りてきました。
根拠というほどの明確なものは無いのですが、下敷きになったのは次のような断片です。
神戸の元になった湊の工事には人柱「松王健児」の伝承があるが、実は「松王」という人柱の伝承は各地に存在する。つまり「松王」は個人の名前ではなく、人柱になった者の代名詞のようなものだったらしい。
「まつ」は「祀る」の意で、「王」は「神の子」という意味…… 神から授かった子を神に返すという意味ではないか……
『菅原伝授手習鑑』に登場する「松王丸」(…我が子を、大恩人(道真)の子を救うために死なせる…)も、おそらくそのことを踏まえた存在です。
ただ、学者の方が考察されているのは、「人柱の伝承を語り伝える者たちがいたらしい」と。そのあたりまでのようでした。それ以上の資料がないようです。語り部として挙げられていた例は「歩き巫女」でしたが、思うに、「人柱」というの事の重大さを鑑みると、レパートリーの一つとしてネタにしていたというのは非現実的かなと。それだけを携えて、各地を巡っていた一団がいたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
先ほども云いましたように、これまで続けてきた「人柱」を中断するのは大変なことです。
おそらく人を殺さずに人形に代替して儀式を行う段階があったと思われますが、生身の人間と人形では大違い。そこにいささかでも軽薄さが感じられれば、効果が期待できないどころか罰が当たる、という心理になってしまいます。そうなれば最悪。
問題は人の心ですから、高僧が説教しても限界があった
心の底から信じられるような「特別な何か」が必要だった
その切り札となったのが「代々、人柱を出してきた一族」ということだったのではないでしょうか。
誰よりも人柱のチカラを知り
誰よりもその悲劇を経験してきた者たち…
そんな者たちが儀式を執り行ってくれる!
数々の人柱の魂を呼んで、この村を守ってくれる!
これ以上、説得力のあることはありませんよ。
いかがですか。「松王の裔」を名乗る一団いたという仮説、これでも空想の産物だと一笑に付されますか? ま、資料に基づかないという意味では、空想なんですが、歴史の空白にピッタリとおさまるような気が…。
普遍化すれば、近代合理主義の前段階には、むしろ古代の物語を受け継ぐ者たちの橋渡しがあったのではないか…… とかなんとか。
前段が長くなりましたが、ここからが芭蕉についてのお話になります。
「生け贄」のことを調べている中でこんな一節に出くわしたのです。
「松王」姓の中には「松尾」に改名する家もあった
そんなの知ったら、誰だって芭蕉を想起するでしょ?
「松王」と「芭蕉」を裏付ける資料は発見できませんでしたが、状況証拠?を並べるとこんな感じになります。
芭蕉には、滅びた者や悲しい伝承の歌枕を巡ったという事実がある
それは風流とは違う、真摯なもの
芭蕉の世界には「滅び」への強い思いが感じられる
ただし、それは宗教的な鎮魂ではない。同調、共感のようなもの
ここで問題になるのが、
芭蕉の「悲劇」に対するこだわりはどこから来ているのか?
当初は、芭蕉の先祖に非業の運命に見舞われた人物がいたのではないかと疑いました。たとえば「古池」の橘氏とか。あるいは「松尾」つながりで「松尾大社」は秦氏ですしね。
しかし、芭蕉の墓は義仲の隣ですし「奥の細道」は義仲には関係がありません。義経と義仲が特別の仲間だったという話も聞きません。
「血統」に注目しても、つながらないんです
「家系」でなければ何なのか?
科学には意味の「遺伝子」ともいうべき「ミーム」なる概念があります。
命にかかわるような出来事、その危機への対応などは遺伝子に刻まれるそうですが、愉しかった思い出、悲しい出来事は遺伝子の管轄外。それを人類は歌や芝居、文字で伝え遺してきたわけです。「秘伝の伝授」とか「精神を受け継ぐ」とかも、すべて遺伝子ではなく「ミーム」による継承です。
そこには血のつながりはまったく必要ありません。
芭蕉が古歌や謡曲に深く学んだり、各地の歌枕を訪れたのは、
いわば「ある種のミーム」を拾い集めて
交感するためだったのでは?
大げさなことを云ってるようですが、某ノーベル賞作家は生物学者にこう云ったそうです。「記憶とは、死に対する部分的な勝利である」と。
この世のすべては変化し、形あるものは消え去る運命にあります。生物は自ら壊して新しく創りかえることでカタチを維持しますが、それも死ぬまでのこと。死ねば跡形もなく消えます。それは変えようのない自然の摂理。
ところが、人間だけが「記憶」を持つことが出来ます。「記憶」は必ずしも不変ではありませんが、アレンジされることがあっても劣化の一途はたどりません。
さらにいえば、個人が死んだ後も作品が遺っていれば、「思い」は他者に受け継がれます。ヘレンケラーの「water!」の感動はこれからも世界中の何千万という人々に共有されることでしょう。
芭蕉の場合は、謡曲の題材になったような者たち、出来事を継承しようとしたと思われます。
わからなかったのは、その動機、背景でした。動機、背景が凡庸なら、活動もそれなりのもの。あれだけの業績を成したと云うことは、それにふさわしい強い動機、背景があったに違いありません。それは何だったのか?
その極めて重要な史実の空白に「松王」がピタリとハマった。
「人柱」を出してきた一族
後に「人柱の語り部」となった「松王の裔」が芭蕉であれば、
悲しみを背負っているのは当然ですし
各地を遍歴するのも 先祖代々の生き方
心情を伝える表現も お手のもの!
今はトンデモ説でしかありませんが、裏付けとなる資料さえ見つかれば、むしろ、しごくストレートな読み解きだと思うのですが……
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